自らの身は顧みず 田母神俊雄論続編(特別編;皇室論#1)#3

自らの身は顧みず 田母神俊雄論続編(特別編;皇室論#1)#3

「3・1・09田母神俊雄講演会実況、DVDを本ブログより無料贈呈(15名限定)(詳細は「講演会、田母神俊雄、『わが思いの丈を語る』」#3参照)。現状報告、今のところ日本8名、米国4名。あと3名までとなりました。最後のチャンスです、申し込んでください。
 <田母神氏の本の書評から、少しわき道に逸れる。田母神氏の説く、伝統文化を継承するという論点からすると、皇室問題は避けて通れない。ここで。#2で紹介したOGさんから送られてきた資料を基に木庵も考えていく。先ず、西尾幹二氏が「Will」で書いた要約をOG氏がしている。以下はそれである。相当長いが掲載する。木庵>
     「皇太子さまに敢えて御忠言申し上げます」
 大きな話題を呼んでいる西尾先生の「WILL」5月号の記事の要約です。昨日発売された6月号には、「御忠言」の第2弾が掲載されています。

・ 謙虚な伝統の番人
天皇制度の意義ということから大上段に振りかぶって考えて見たい。私は平等とか人権といった近代の理念のまったく立ち入ることの出来ないエリア(界域)が社会に存在することの意義、ということに尽きると思っている。国民はここに自分たちと同じ尺度、同じ価値、同じ社会意識を持ち込むべきではない。
個人がどんなに努力しても及ばないエリアがこの世界には存在する。それをしかと知らしめるのが天皇制度である。人間は決して自由ではない。歴史は個人の自由を超えている。天皇にも自由意志はない。それを無言で教えているのが近代史の届かない処にある王朝の歴史である。歴史の短い民族は欲してもこれが得られない。日本民族には稀有な天与の宝が授けられているといっていい。

私たちの伝統とは私たちの意識し得ない何かである。天皇個人の努力や意図をも遥かに超えている。天皇は神ではない。神を祭る祭祀継承者であり、いわば神主の代表である。
天皇は伝統を所有しているのではなく、伝統に所有されている。天皇とその一族は国民の代表として伝統に対する謙虚な番人でなくてはならない。それ故に尊貴の存在なのである。
天皇制度と天皇(及びその家族)との関係は、比喩でいえば船と乗客との関係である。乗客はいまたまたま船に乗っているが、船主ではない。天皇家は一時的に船をお預かりしている立場である。今上天皇はそのことをよく弁えになっておられるように思える。歴史に対する敬虔さ、国民に対する仁愛、祭祀の尊重と遵守にそれは滲み出ている。
皇太子殿下と妃殿下にその自覚が果たしておありになるのか否か、それが今ここに問われている疑問であり、テーマである。

・ 次元を異にした存在
良い学校を出てキャリアになるのを競争するのは近代社会における一般人の生き方の常道である。日本では明治以来、封建制度を毀して近代制度に取り替えていくのに学校教育、学歴という手段に大きく依存した。日本は革命を経験していない国だ。代わりに、良い学校を出ればどんな階級の子もエリートになれるという能力主義の公平感が明治以後この国を革命的に変えていった。然し皇室は平等の理念にも、競争の原理にも無関係で、次元を異にした存在であり続けた。当然である。皇室は自由や民主主義の尺度の外にある。

そのことは長い間ほとんど自明の話であり、誰一人疑問とする者はいなかった。ところがいつの間にか局面が変わっていた。天皇家の婚姻が学歴主義とクロスした。悲劇はここに胚胎している。雅子妃はハーバードと東大に関わっていて、学歴エリートを絵に描いたような優秀な人材であると言われ続けてきた。知らぬ間に戦前からの能力主義が皇室をめぐる垣根を埋めてしまっていた。深く考えないで、何でも「平等」が正しい、「個」が正しいでやってきた、日本国民の無思慮の結果である。一般社会のこの影響は天皇家に作用し続けたらしい。
平成5年6月9日、雅子様天皇家に嫁いだ。私はたまたま受けていたインタビューの中で、ご成婚について次のような感想を述べた。

能力主義が皇室にまで
「人と人の間に色んな複合的違いを際立たせる尺度があって、それが宿命として意識されている方が個人は幸せだし、社会は安定する。能力主義の行き着く先は不毛なんです。だけどついに能力主義は皇室にまで入ってしまったんですよ、こんど。これはまさに幸か不幸か、一つの大きな象徴的な出来事です。『効率と平等』の社会の最終帰結がついにきたんじゃないかと思うな(笑い)。効率主義が皇室にまで入ったという文明論的な意味づけと言うのを、われわれは今考える必要があると思いますね。皇室の幸せとは別個にして、そのことは国民的には僕はやっぱり不幸なことだと思いますよ。貴族階級のいない王制というのは世界史の過去に果たしてあったでしょうか。(「別冊宝島183『日本の教育改造案』」)

一つの尺度で社会が画一化されるのは社会にとって不幸だと言うのが私の考えの基本にあった。努力や意図ではどうしても動かせないし、そこに入れない別の秩序、目に見える形で厳として実在している非合理の壁、それが皇室である。私は一般社会の尺度を拒んでいる、理不尽さをさえ絶えず意識させるエリアの存在は、一般社会の画一化を防ぐためにも貴重なまでに有効であると考える。

・ 「人格否定」発言
平成16年5月10日、皇太子殿下が記者会見で、雅子妃の「キャリアと人格を否定するような動きがあった」と挑発的ともとれるようなご発言をなされた。例にないことだった。ご成婚から11年経っていた。ご成婚後10年余にして軋みが始まったのだということは誰の目にも分かった。原理を異にする二つの世界、近代を超越した理不尽なまでの伝統の世界と、個人の努力や意図が生きる近代の能力主義の世界とがぶつかったのだとみていい。

 私はこの時も関連の評論を書いている。ヨーロッパの王室とのとかくの比較に関わる誤解を先ず正そうとした。日本という一国をイギリス、オランダ、スエーデンといったヨーロッパの各国と一対一の対応として考えるのは当を得ていない。時に日本をヨーロッパ全体と対応させるという視点が必要であると常々考えている。
他方、ヨーロッパの王室は開かれているとよく言われる。王家同士が交流し、婚姻を結ぶ慣行はずっと昔からあった。王族には民族主義愛国心もなく、独自の自由があるかに見えた。現在でも婚姻の歴史は国境を越えて交差しているし、自由度の幅も広い。

 雅子妃の「キャリアと人格を否定する動き」への皇太子殿下の強い抗議は、ヨーロッパの王族の自由度の広い生活を比較の視野に入れてのことであったろう。しかし、困ったことに、ここには錯覚がある。妃殿下が日本の皇室をヨーロッパの王家と同じようなものだと想像して天皇家に嫁がれたとしても・・・多分そうなのだろう・・・希望表明されている「皇室外交」は願望に止まり、日本では考えられない。ヨーロッパだって、王家に格別の外交を期待している国はない。「王室外交」なんてシリアスな意味では存在しない。ただいかにも賑やかな「社交」があり、それが日本から見て自由度たっぷりした、抑圧のない、開かれた、明るい世界に見えるだけであろう。

つづく