櫻井よしこ、異形の大国中国#12

櫻井よしこ、異形の大国中国#12
   教科書では、「義和団が近代文明を敵視し盲目的に外国人や外来文化を排斥した愚挙について一字も触れていない」「義和団は、西洋人を殺し、外国人や外国文化に少しでも関係のある中国人まで殺した」と、書いている。1900年6月24日から7月24日のひと月間は全国で義和団によって殺された外国人は231名、内子供は53名、中国人の被害はもっと凄まじく、北京では「当時の知識人たちが少なくない実録を残してい」て、それによると、6月18日、「死者は十数万人に上った」「日頃快く思っていなかった者を教民(キリスト教信者)だとして一家惨殺する」「刀や矛で殺され、バラバラに切り裂かれ、生後一月未満の嬰児すら残虐に殺され、人道は地に堕ちた」と、袁は生々しい指摘を引用した。
   袁は中国の歴史教科書が、こうした中国人自身により起こした恐ろしい事実に一言も触れず歴史を教えていることを非難して結論づけている。「義和団事件とはまさに(中国自身の)専制統治が国家人民に招いた禍の典型である」と。
   義和団事件を契機として中国は諸国の属国に転落し、国内には亡国の風景が広がったが、中国共産党歴史教育はこの「災難の風景を革命救国の悲壮な楽章に書き換えてしまう」、それこそ、「全く突拍子もない話」だとつき放している。袁は、制度改革を望まない勢力によって、清朝政府の下で「一億以上の中国人が『非業の死』を遂げ」たと記す。
   この虐殺の歴史を生きてきた人々は人間殺害のイメージを、自分たちの体験に基づいて記憶しているのではないか。中国人は、日本軍が殺し尽くし、焼き尽くしたと非難する。赤ん坊をボールのように投げて軍刀で串刺しにして殺したなどともいう。「この種の残虐行為は日本人には考えられないことだ。中国人自身による“虐殺”の記憶が対日非難の背景にあるとはいえないだろうか」<と、櫻井は言葉じりを柔らかく表現している。木庵なら、「背景にある」と断定したいところである。木庵>

   袁は、義和団による殺人、放火、略奪などは、外国の護衛隊と称する軍隊が北京入りした後に始まったのであり、外国兵の侵入を全ての原因と位置づける中国の教科書の主張は根拠が無いことを、当時の出来事を時系列できっちり並べて証明している。そのうえで、中国共産党が推進する歴史教育は「歴史の真相を歪曲しているだけでなく、清朝政府が国際法を蹂躙した罪を隠蔽するもの」と喝破している。
  袁は、「義和団から文化大革命まで」中国人が「やったことは民衆の殺傷、社会秩序と正常な国際関係の破壊だった」「文化大革命を否定するだけで、その淵源である義和団の徹底的に批判しなければ」この種の「暴行がふたたび台頭する」と警告している。だが、事実関係を軸としたこのまともな教科書批判は、中国共産党一党独裁体制の下で掲載された途端に消されていった。中国を代表する学者として高い評価を受ける研究者の多くが、同論文を取り上げもしない。彼らは共産党の価値観の枠内にとどまるのである。彼らに袁論文について尋ねてみると「あれは間違いばかりです」と答えるのみである。

支那義和団事件文化大革命だけでなく、古来から大虐殺の歴史である。だから、南京事件において日本軍が30万人虐殺したと発表したのは、別に驚くことではない。支那文化の一端を日本軍のせいにしているだけである。
   私は7年ほど前、旧満州と北京を訪れた。遼東半島から北京よりにある胡蘆(ころ)島という所も訪れた。名前は島であるが、半島である。この地名を知っている人は相当の満州通ということになる。戦後昭和21年4月から昭和22年にかけて、満州に取り残された約104万の日本人がここから日本に脱出した。私は満蒙青少年義勇兵の生き残りの方と一緒に取材(?)旅行をしたのである。一緒に同行した人々(通訳、私を含めて6名)(老齢であるので尿が近い)が辛抱できなくなり、マイクロバスを止め、急きょ道路の側にある共同トイレを使用した。そこは見事というほど汚物がフロアーにまで氾濫していた。北京でも旧満州でもトイレは汚い。
   19世紀ごろのイギリス、アメリカの外交官や宣教師が書いた本を読むと、支那の民衆は犬猫のように生きていたことが分かる。また、内戦や飢餓によって犠牲になるのはいつも大衆である。どの時代においても、権力者によって虐待されながら、何とか生き延びているのが大衆である。そのような支那の過去をイメージしていたが、トイレを見てから、現在でも大衆の置かれている情況は変わらないのではないかと思った。
   ソ連国境線の近くにあった満蒙青少年義勇兵の訓練所を訪れるため、そこからマイクロバスで2時間ほどかかる駅に朝の4時頃に着いた。食事の前に風呂屋と称するところで、シャワーを浴びることになった。風呂屋の中に入って驚いた。多くの人がフロアーや浴室のタイルやコンクリートの上で寝ているのである。きっと、彼らはホテルに泊まる金がないので、風呂場が閉店したあと、宿泊地としてそこを利用しているのであろう。我々が服を着替えたり、シャワーを浴びてうるさいだろうに、眠たそうな目を少し開け、何事かといぶかしげに見ている人もいるが、誰一人文句を言わない。少しの代金しか払っていないので、文句など言えないのであろう。ハルピンでもそうであった。普通の店が閉店と同時に宿泊施設に変わるのである。それもフロアーにブランケットを敷くぐらいにして寝るのである。
   いつの間にか旧満州旅行の話になってしまった。脱線したついでに、旧満州旅行の話を書いてみよう。
  ソ連国境近くになると、観光会社などというものはない。我々の旅行を斡旋してくれた旅行会社が連絡をとってくれたのは、現地の役人である。役人にとって日本から来た我々(私ともう一人はアメリカからであるが)を案内するのはとても楽しいらしい。というのは、いくらかの礼金が入るのだろうし、我々と行動を共にしても、仕事の延長で公務にもなる。一日の行動の後、夜一緒に食事をした。通訳によると、役人が宴を主催してくれるという。支那の役人もなかなか気がきくと思った。後でこっそり、通訳に「食事や酒代はあの役人が払ってくれたのですか」と尋ねると、笑いながら「貴方たちが出したのですよ」という返事であった。
   支那の役人といっても地方の小役人であろうが、少しは役人の様子を観察できた。訓練所に行くと、当時の宿舎がそのまま残っているのがあった。当時訓練生が使っていた井戸まで捜そうとしたが、それは数年前に埋められていたことが分かった。当時、訓練所の周りは閑散としていて、ぽつぽつと農家の家があったぐらいだったらしいが、今では支那東北地方最高の大豆の生産地になっている。土地が肥えていて、肥料をやらずとも作物が生長するような所である。現在居住している人々は主に朝鮮戦争以後の帰還兵の方が移住してきたらしい。各家は柵で仕切られているのであるが、柵の中には野菜がびっしりと植えられていて、それもよく生長していた。自給自足の生活をしているのであろう。一人の気のよさそうな老人がトマトと甘瓜を我々にくれるという。私は頂きたかったが、役人は、その老人を犬でも追っ払うようにして、「あっちに行け」のようなことを言っていた。通訳によると、「あのようなものを食べると食中毒になる」らしい。私は老人の親切が嬉しかった。それに対して、役人の横柄さに腹がたったが、支那社会の縮図を見ることもできた。
  私には支那の大衆が惨めには見えなかった。本当に惨めなところを見ていなかったのかもしれない。私たちが接触した大衆の表情に索漠としたものは窺えなかった。貧しくとも、人権が抑圧されていようと、誰もが同じ状況であればそれを別に不幸とも思わないのであろう。人間が幸せに感じたり不幸に感じるのは比較の問題である。誰もが貧しければ、それを不幸にも思わない。文化大革命のとき、多くの人が虐待されようが殺されようが、案外平然としていたのではなかろうか。草原に生息する草食動物が肉食動物によって追いかかられるときは必死で逃げ、仲間の誰かが捕まり、殺され、肉を食いちぎられているのを見ると、それが自分でないという安心から、被害者の仲間からそう離れていない所で、平気で草を食しているようなものではないだろうか。支那の民衆にとって、昔から自分たちの仲間の誰かが犠牲になる。それは悲しいことではあるが一つの天地の摂理のように感じている。
   毛沢東の時代までは、世界から孤立して(これが中華思想の本質)、革命があろうがなかろうが、支那は昔から続く弱肉強食の自然状態、無政府状態の中で、民衆は逞しく、また惨めに生き続けてきたのである。ところが訒小平の開放政策により世界と近くなり、そして、いつしか民衆は世界と比較することを学びだした。古から流れている混沌とした摂理がなくなり、不幸を不幸と感じてしまうようになっていくのではないか。そのことが、支那の今置かれている最大の問題ではなかろうか。木庵

つづく