櫻井よしこ、異形の大国中国#13

櫻井よしこ、異形の大国中国#13

      李登輝氏に見る旧き佳き日本
  07年5月30日から6月9日まで、台湾の李登輝元総統が日本を訪れた。後藤新平生誕150年を記念して創設された後藤新平賞の受賞のためである。6月1日の授賞式のあと、曾文惠婦人と孫を伴って芭蕉奥の細道の一部を歩き帰京した。そして都内で講演が行われた。
   李登輝の言葉は日本人の心に深く浸透する。話は世界やアジア情勢の分析にとどまらず、日本人とはどういう民族であったか、日本とはどんな国家であったかという、日本人の魂に直接つながる内容であった。李登輝が今の日本人に語りかけるのは、今の日本と日本人が失って久しい価値観であり、日本人が疾(と)うの昔に置き去りにしてきた価値観を、今もたしかに備えているのが李登輝である。
   李登輝は1923年1月15日、日本統治下の台湾で生まれ、22歳まで日本人として生きた。そのことについて李登輝は、日本人であったとこ、日本文化の下で基本的な教育と教養を身につけたことを「心から感謝している」。李を台湾総督府所管の旧制中学、旧制高校に通わせたのは、父親の李金龍で、警察学校出身の官吏であった。母は江錦という名で、兄登欣がいた。兄登欣は芸術家肌の多芸多才の人だった。彼はオルガンやヴァイオリンをよくした。帝国海軍の第一期の志願兵である。マニラ戦で死亡し、靖国神社に岩里武則名で祀られている。
   李登輝は兄の死に際してたしかに台北の自宅に戻ってきたと、次のように語る。「兄貴が戦死したと思われるちょうどそのとき、兄貴は自宅に帰ってきたのですよ。使用人が、兄貴が血まみれになって帰ってきた姿を見たといっていた。兄貴の魂が帰ってきた。僕はそう思ったけれど、親父は違った。12年前に95歳で亡くなりましたが、親父は死ぬまで、兄貴の戦死を信じなかった。だから、墓も作らない。親父の気持ちを思えは、僕が兄貴の墓を作ることは出来ないでしょう」
    亡き父の気持ちを尊重して、兄の死を前提とする行事もお墓を作ることも控えてきた李登輝にとって、兄の霊が靖国神社に祀られていることを知ったのは心の安らぎだという。
  「22年前の訪日の時には、兄貴が靖国にいることを知らなかった。今回はじめて、62年振りに靖国神社で兄貴に会って、兄貴の霊の前に深々と頭を垂れ、冥福を祈ることが出来た。私としても、残り少ない一生の中で、やるべきことをやりましたという気持ちです。人間として、有難く、深く感謝しています」と李登輝は涙をみせた。
   中国が目の敵にする靖国神社については「わが家で出来なかったことを、よくやってくれた。兄の魂を祀り、ここでお祈りしてくれていたことを、私は感謝しなければないと思っております」と繰り返す。
  李登輝台北の旧制淡水中学から旧制台北高校に学んだが、6月7日の講演会には、台北高校の同級生ら約30人も集った。彼らは「あの頃はいつも議論していた」と懐かしむ。
「人間とは何か、死とは何か、人生の目的は何か」など、実用につながらないことばかり議論していたという。李登輝も振りかえった。
「その頃読んだ書物は数限りないです。特に私の心を揺さぶったのは、鈴木大拙西田幾多郎倉田百三夏目漱石、阿部次郎、和辻哲郎をはじめとする“人間の内面を深く省察する”書物でした」
   やがて、カント、ヘーゲル、カーライル等を経て、新渡戸稲造の「武士道」に出会った。
「青春時代の魂の遍歴に、最も大きな影響を与えた本を3冊上げるとすれば、ゲーテの『ファウスト』、倉田百三の『出家とその弟子』、カーライルの『衣装哲学』です」と語る李登輝の、泉のように湧き出す人間的な魅力に桜井が接するとき、彼女は「教養を深め人格を磨くことを基本にした旧制中学、旧制高校の教育のすばらしさを、実感」している。
  李登輝はなおも語る。
「僕はいつも、人間とは何か、死とは何かを考えてすごしました。少年時代から、自分は一体何者かと問いつづけていたのです」「漱石の『こころ』、西田幾多郎の『善の研究』にどれだけ、感銘を受けたか。こうした書物が日本人の教養の基本だった。そのおかげで、私は今ようやく、『私は、私でない私』であると、実感するところに辿り着きました。
  櫻井は李登輝のなぞかけのような言葉「私は、私でない私」を分からないとした上で、解説している。
「人間は誰しも、自分を肯定する強烈な自我がある。同時に自己を否定する激しい想いもある。自己肯定と自己否定。この過度な自意識から脱却して、自己中心から他者中心、社会中心に、心をきりかえなければならない。クリスチャンとして言えば神は人の心の中に在る。深い愛によって人間を受けとめ許してくれる神は心の中にある。そのことを知れば、私はもはや、自我の強い私ではなくなるのです」
  李登輝は最後に語った。
「なぜ、日本にはこのように多くの友人が私を待っていてくれるのか。なぜ、李登輝は日本で歓迎されるのか、それは僕が骨董品だからだよ。そうだ僕は、日本の骨董品だなぁ」
李登輝の旧制中学高校時代、現実から離れた、人間とは何か、死とは何かというようなことばかり考えていたというのは興味がある。昨晩旧制高校出身という矍鑠(かくしゃく)とした老人の話を伺った。彼の通った時代の高校生気質とは、バンカラが普通であったという。バンカラの象徴として、手ぬぐいをバンドの後ろに引っ掛けるのであるが、その手ぬぐいは一切洗わないのがバンカラの主流であったと。テーブルの上にこぼれた醤油をそれで拭くし汗も拭く。異様な臭いがするが、それを意に解さないところに旧制高校バンカラ気質があったという。カントにヘーゲル形而上学的な関心はあっても形而下学など興味を示さない。着るものなどどうでもよいという気概があったのだ。それに引きかえ、戦後の学生の関心は形而下である。商業、経済、法律と実学な方面に興味を示す人間が多くなった。要するに、精神より物に興味が移ったのである。だから戦後有名大学の経済、政治学部を卒業して、実業界で活躍したような人でも、どこか深さがない。経済のこと政治のことを語らせると、一応そつのないことを言うが、どこか軽薄さを感じる。
  李登輝の言葉、『私は、私でない私』の解釈を桜井は、「自己肯定と自己否定。この過度な自意識から脱却して、自己中心から他者中心、社会中心に、心をきりかえなければならない」としている。私に言わせれば、櫻井の形而上学的無教養さを露呈しているように思える。なぜ他者中心、社会中心と焦点を移動しなければならないのか。私でない私の中に、他者愛のようなものも含まれるが、李登輝の言う私でない私とは、実在的な私の認識であり。この認識がすぐに他者・社会への心の切り替と結びつかない。むすびつけようとする櫻井の気持ちはわかるが。社会改革を目指す桜井は、李登輝の私でない私、つまり、桜井が思う、他者、社会への心の切り替えを行う私と性急に解釈してしまっているのである。つまり、櫻井の政治思想が李登輝形而上学を押しのけて前面に出てしまうという軽薄さが見えてしまう。
  このあたりが、旧制高校で現実から離れた本物の形而上学思考を通った李登輝と、ハワイ大学歴史学を学びジャーナリストの道を歩んだ、つまり本格的な形而上学を勉強しなかった櫻井との差が出てしまうのである。これは桜井の責任というより戦後の教育の欠陥である。
  戦後の実学、形而下学を基調とした学問の趨勢は戦後のもの中心とする文化の反映である。それが戦後の物質文明を推し進めた。しかし、今その発展の速度が落ち、また静止している時代にあって、もう一度日本の旧制高校旧制大学の現実から離れた教育的気質を考えなおす必要があるであろう。ただ単なるノスタルジアとして過去を懐かしむという領域にとどまるのではなく、日本の将来を鑑みる観点に立って。
  どの社会でも国家でも無駄なことを真剣に取り組んでいる人間が多いと、その社会なり国家をよりバランスよく健全に維持できるものである。例えば、現在の支那という国を考えるとき、もはや形而上学などない。生きるためだけの実学というより策術しかない。そのような国の未来はない。日本が支那のようにならないためにも、もう一度日本の教育のあり方を根本的に考え直さなければならないであろう。木庵>
つづく