櫻井よしこ、異形の大国中国#10

櫻井よしこ、異形の大国中国#10
富田メモの危うい政治利用
 「A級が合祀されその上松岡、白取までもが」「だから私あれ以来参拝していない。それが私の心だ」
  元宮内庁長官富田朝彦氏が、昭和天皇のお言葉として書きつけたメモが波紋を広げている。
  スクープを物にした「日経」は06年7月20日付朝刊トップで、同メモを
A級戦犯靖国合祀」「昭和天皇が不快感」と大見出しで報じた。
     櫻井はまず富田メモの信憑性について論じている。
   メモの書かれた88年4月28日当時、陛下のご体調が万全でなかった。前年の9月12日に大量の嘔吐され、22日には手術が行われた、慢性すい炎とされたがガンであった。田久保忠衛は次のように言っている。
「あの時期の昭和天皇が、10年も前のA級戦犯合祀について、果たしてご自分の意図が正確に伝わるように御意見を述べられていたのかどうか、失礼ながら疑問に思っています」
   一方、陛下のお言葉を、富田氏がどれだけ正確に書き残したかも疑問である。メモは断片的で、御発言のなかから、幾つかの言葉が富田氏のフィルターを通して不完全な形で書き残されたと言わざるを得ない。この点についても、個人的に富田氏を知る田久保はこう語る。
「富田元長官は高潔な方ではあったでしょうが、本当の歴史を知っていたのか、例えば白鳥(敏夫元駐伊大使)を『白取』と書いています。また『筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが』と、恰(あたか)も筑波(藤麿)宮司が合祀を渋ったかのように書いていますが、これは事実と異なります」
   富田メモでは昭和天皇は「筑波は慎重に対処」とする一方で、「松平の子の今の宮司がどう考えたのか、易々と」と語ったとされている。筑波宮司の慎重な判断はよかったが、後任の松平永芳は「易々と」A級戦犯を合祀して怪しからんという口調だととれる。だが、A級戦犯の合祀を決めたのは他ならぬ筑波宮司である。同宮司は昭和45年2月の崇敬者総代会で、A級戦犯の合祀を決定し、同年9月の同会で「時期は宮司預かり」と決めたのだ。
   そして重要なのは、「A級戦犯」も含めて誰を合祀するかの決断は、靖国神社ではなく、厚生省、つまり政府が行うという点である。
   矛盾を含む富田メモを以て、「日経」は「A級戦犯靖国合祀」「昭和天皇が不快感」と見出しをつけた。が、この決めつけは疑問である。これまで「A級戦犯」といえば東条英機元首相の代名詞であるかのように報じられてきた。その東条元首相に対する昭和天皇の思いがあたたかいものであることは「昭和天皇独自録」(文藝春秋)の随所に散見される。
   天皇は語っておられる。「元来東条と云う人物は、話せばよく判る」「一生懸命仕事をやるし、平素云っていることも思慮周密で中々良い処があつた」と。東条の評判が芳しくないことについても、「圧制家の様に評判が立つたのは、本人が余りにも多くの職をかけ持ち、忙しすぎる為に、本人の気持ちが下に伝らなかつたこと、又憲兵を余りにも使ひ過ぎた」所為だとして、言葉をつくしてかばわれている。 
   他方昭和天皇は、三国同盟を推進した松岡洋右については非常に厳しい。
「『ヒトラー』に買収でもされたのではないかと思はれる」「一体松岡のやる事は不可解の事が多い」「彼は他人の立てた計画には常に反対する、又条約など破棄しても別段苦にしない特別な性格を持っている」とまで語っている。その意味で富田メモの「松岡、白取までもが」という部分には、裏づけがある。しかし、松岡を疎んだことは事実としても、“A級戦犯が・・・”といって、東条元首相を含む人々を合祀した靖国神社参拝をやめることは昭和天皇の御性格からして考えにくい。
   日本が占領されたとき、昭和天皇マッカーサーに、全責任が自分にありと言って、日本国と国民を守ろうとした。決して他人に責任転嫁されない姿勢に感動したのはひとりマッカーサーだけではないだろう。このような天皇を守り通したのが、「A級戦犯」とされた人々、就中(なかんずく)、東条だった。東条は極東軍事裁判で日本を犯罪国家として裁いたキーナン検事に、最初は「日本国の臣民(自分)が陛下のご意思に反してかれこれすることはあり得ぬことであります」と答えた。昭和天皇は「彼(東条)程朕の意見を直ちに実行したものはない」と語っているが、東条の証言は正に真実そのものだっただろう。しかし、次の法廷で東条は「(天皇は)私の進言、統帥部その他責任者の進言によって、しぶしぶ(戦争に)ご同意になった」と述べて、証言を変えたのだ。
  中西輝政は語っている。
「東条、或いは広田弘毅元外相のように天皇の身代わりになって処刑台に立った人々が靖国神社に祀られることに関して昭和天皇が抵抗感をお持ちなわけがありません。もし、お持ちなら、それは人の道に反します。東条も広田も平沼騏一郎も皆、開戦に反対でした。富田メモから『A級戦犯』全てについて天皇が不快に思っていたと結論づけるのは、したがって不完全な解釈だと思います」
  日大教授の百地章は、憲法国際法も非常に重視し、立憲君主国日本の天皇として、憲法上の規定に忠実で」あろうとした天皇の考えにこそ想いを至すべきだと強調する。「昭和天皇立憲君主として御自分の個人的な発言や行動が政治を左右することのないよう、非常に注意しておられました。だからこそ、ご自身は反対でしたが、開戦も裁可なさった。個人的な思いで政治を動かしてはならないと、そこまで御自分を律した方が、今回のメモの流出、その政治利用を御覧なればどこまで悲しまれ、憤ることでしょうか」
  昭和天皇が、お好きなテレビ番組や贔屓(ひいき)の力士についても明かさなかったのは有名なはなしだ。
   國學院大学教授の大原康男が、富田メモで「親の心子知らず」と批判されている松平宮司について語っている。
「父の松平慶民さんも日記を残していました。息子に『自分の死後は焼却せよ』と言い残していたのですが、晩年になって日記を焼却しました。それは普通の対処です。ところが入江相政侍従長のときから事情が変わりました。今回の書き残した情報をきちんとコントロールしていなかった富田さんの責任が問われます」
   公開さえたメモが、たとえ天皇の真意を伝えているとしても、それによって政治を左右することを厳に慎まなければならない。櫻井は天皇の政治利用の例を挙げている。
   92年、尖閣諸島までも自国領だと主張し始めた中国に天皇皇后両陛下のご訪問を実現させたことだ。いま、富田メモを以て「A級戦犯分祀を主張する人々の多くは、当時、天皇御訪中で日中関係は未来永劫安定すると説いた。だが、御訪中は中国に利用されたにすぎないことが、今となれば明らかである。同じような人々が「A級戦犯分祀を主張し、そのことのために富田メモを利用しつつある。天皇の政治利用は二度としてはならないのだ。

<櫻井の最後の主張、「天皇の政治利用は二度としてはいけない」という気持ちは分かるが、日本の歴史上、政治的に天皇をどう利用するかによって権力者の色合いが違ってきた。明治維新を遂行した薩長天皇を利用した。また、戦前の軍部は天皇を利用して、軍部独裁の道を歩んだ。櫻井(日本会議)だって日本文化の深いところに根ざす天皇制を利用している。つまり日本の歴史のいつの時代も天皇を利用しているのである。そして、その利用する中でどれだけ権力闘争に従事する集団が天皇制を有効にまた説得力ある論理として展開できるかによって勝敗が決まる。それよい、権力闘争に勝ったものが天皇を引き寄せ、好きな天皇論理を展開できるのかもしれない。「勝てば官軍」という言葉がある。権力闘争で勝ったものが御旗の下で大きな顔ができるという日本の社会構造が古からある。平たく言えば、権力者になることによってより天皇に近づき、天皇の役割を決定できるのである(日本では天皇を完全に否定することは、権力の座にも上れない)。
  今回の富田メモは自分に都合のよい天皇像を作るため、日本会議派それにアンチ日本会議派が、それぞれ自分の都合のよい、天皇発言(?)解釈をおこなっているのである。富田メモを暴露した「日経」の思惑が見える。そして、それに連なる、アンチ日本会議の計算が見える。アンチ日本会議のある一派は東京裁判史観に汚染された自虐史観を持つ人々である。また自虐史観なるが故の戦後利権を維持できたグループである。また日本会議派も、皇室崇拝という名の下に、戦後利権を獲得している。ということは戦後利権の争奪戦に天皇が利用されているだけである。富田メモをどう解釈するかによって、日本会議派、アンチ日本会議派のどちらにどれだけ近いかを表現することになる。つまり富田メモに対する解釈は、それを解釈する人間の政治的色合いを判断するリトマス紙の働きをしているということになる。木庵>
つづく