櫻井よしこ、異形の大国中国(特別編、erasusさんとの問答、#5

櫻井よしこ、異形の大国中国(特別編、erasusさんとの問答、#5
岡本行夫論から 「ケロっと。君」論に変わりましたね。erasusさんが指摘なさるように、彼は小林よしのり的な総合的に物を見れる人間なのだろう。ただ小林ほど攻撃的ではないようだ。所謂バランスのとれた人間であろう。彼の強みはよき家庭人でありながら、日常性を楽しみながら、それでいてグローバルにものが見えるというところだろうか。彼は政治的な人間ではない。どちらかというと人間学的な人間である。人間学とは政治、経済、宗教などをを自己のフィルターを通して、観念ではなく、そこに貫く何か普遍性を追及する学問というより実践学である。彼は、無駄な闘争はしない。じっくり他人を観察し、他人と衝突はしない。しないというより、本来生まれつきのバランスのとれた人格と知能を備えているため、つまらない闘争に身を置かないのである。それが周囲にも好感を持たれ、無理をしなくても出世するという大物の人物像が浮かんでくる。だからといって、彼は自分の性格に満足しているわけではない。erasusさんのような闘争心丸出しの人間に、自分にない素晴らしさを発見している。私とerasusさんの論争においても、どちらかにつくわけでなく、どちらもの長所、短所を観察している。またそのボトルを楽しむ余裕もある。

   erasusさん、「ケロっと。君」さんのことを、「木庵先生やわたしのような疑似姜尚中のようなバカ(口舌の徒)ではないのである」と書いておられるが、「わたしのような」だけにしてもらいたい(笑)。たとえそれが当たっていても、道ずれは御免こうむりたい。それに、隠居の身、≪日本主義者≫、≪国粋主義者≫と、探偵らしく詮索なされているが、私は隠居の身ではない。仕事をしている。少なくとも隠居したとは思っていない。現役であると思っている。ブログの文章表現では穏やかに書いているが、現実の私は喧嘩早いし、俗っぽい人間である。口喧嘩なら誰にも負けない。脅し脅迫と、慇懃無礼法を自分で言うのも何だが上手く使い分けている。仙人のように霞を食べて生きているわけでない。美味しいものをいつも食べたいと思い、金をたくさん儲けて、金で人を支配したいとも思っている。

   自民党に対して、それほど嫌悪感を持っていない。自民党自身、ごった混ぜの人間の寄り集まりだと思っている。ただ戦後政権政党として長く続き過ぎため、歪みが色々な面に出て、余り期待できる政党ではないことは分かっている。だからといって、民主党を評価していない。政権交代はさせてもよいかなあ、と思うのだが、それは危険であるという気持ちがある。以前自民党社会党が組んで、村山を首相にし、その無能ぶりがその後の日本を歪めた歴史があるので、簡単に政権交代を是とする気持ちにはなれない。

   「〈日本会議〉の櫻井よしこらに騙されてしまう−のかも知れない?」
まず、日本会議というものがよくわからない。これは政策グループの名前なのか、それともある共通する考えをもったグループを総称して「日本会議」というのか、よく分からない。櫻井よしこらに騙されるわけがない。また心酔するわけがない。参考にするし、共通根を見つけようとする。また、行動を共にするかもしれない。しかし、グループが思考停止した段階で、「さよなら」するだろう。erasusさんが言われるように、国でも個人でもいつまでも勝者はあり得ない。どのような有能な人間も頭脳、体力の衰えと共に賞味期限がやってくる。あまり表で活躍しすぎると、無駄なエネルギーを使って、賞味期限が早められると思っている。私は目立たないが、死ぬ寸前まで現役でありたいと願っている。現役とは頭脳明晰、それに社会と関わるという意味において。関わるといっても、何もリーダーになる必要はない。自分の力に応じた地位でよい。だから自分から進んで、行動を起こすことはしない。自然な形で他人が頼めば、動くこともある。

岡本行夫論に戻る。
  erasusさんは書いている。「岡本行夫も小和田雅子らと同様に(岡本は第三国だが)≪帰国子女≫であった。ついでに木庵先生の大好きな〈日本会議〉の櫻井よしこも書いておくと、−櫻井よしこも自分探しに海外へ出ねばならなかった組に属することが分かろう。」
   なぜ、「木庵先生の大好きな(日本会議)の」と形容詞的なものがつくのか、erasusさん得意のレッテル張りだな。帰国子女は語学で有利になる。そのことと彼らが日本のリーダーになれるかは別問題である。それも一人ひとりのバックグランドがちがうので、帰国子女であるからどうということはない。海外生活によって、子供のときから外国を意識するというのはあるだろう。しかし、それが国際人と直接結びつかない。言語能力と国際人になることの相関関係はあるが、それが全てではない。日本語しか出来ない人が国際人である場合がある。それより国際人というものの定義も定かではない。外国語を話して。外国人とコミュニケーションが出来ることが国際人ではない。国際人とはまず母国の文化を深く知って、外国人がその人間から何かを学びたいと思う人はまず国際人の最初の関門を通過した人であろう。例えばアメリカに住んでアメリカ人と英語で十分会話が出来たとしても、アメリカ人がその日本人を自分と同じだと思えばそれは国際人ではない。「この人、アメリカの文化で育った自分とは違う、それも自分の文化より何か深いものを持っていそうだ」と近づかれるような人が国際人である。だから国際人とは別に外国に住む必要はない。ある熟練した能力を持っていて、それを学びたいと外国の人がやってくるような人も国際人である。彼は他の言語で話す必要はない。彼が何か外国人が学びたいというものを持っていれば彼は国際人である。価値ある秘伝を持っておれば、通訳をつけてでも外国人は彼から学びとろうとするであろう。岡本行夫、大和田雅子、櫻井よしこたちが、日本の奥義をマスターしているかどうか、読者の評価に任すとことにする。
    国際人であろうが何であろうが、最終的に日本人としてのアイデンティティーをどこまでもっているかによって勝負が決まる。ただそれだけである。
  そのように思う私を、日本主義者と思うなら、それでよい。
木庵