櫻井よしこ、異形の大国中国(特別編、erasusさんとの問答、#3)

櫻井よしこ、異形の大国中国(特別編、erasusさんとの問答、#3)
   以前と同じ表現をすれば、洪水のごとくerasusさんからトラックバックが返ってきた。今回も興味のある論点があるが、私を国粋主義者というレッテルを貼られているので、そのことについてまず書いてみる。
  どのようなものを貼ってもらってもよいが、私は自分が生まれた国を愛し、日本の将来について考えているという意味で国粋主義者と呼ばれるのは結構だが、国粋主義者の響きの中に偏狭主義者というものがあれば、それはどうですかね。そう思われるならそれでよいが、その呼びかけは私の頭の上をスーとどこかに飛んでいくようなもので、私に当っていますかね。
  私は20年以上アメリカ人の弁護士に日本語を教えている。日本語というより、日本の文化を教えている。彼は私の哲学の先生の息子で、日本で1年半ほど語学研修をして殆ど日本語をマスターしている。ところが、日本語は発音、文法は簡単なのだが、context(文脈、前後関係)がアメリカ人からすると捉えにくいらしい。日本人なら少々論理的飛躍があっても阿吽の呼吸のようなもので理解できるが、アメリカ人には日本の文化が良く分からないので、論旨が理解できないことがよくある。そこで、私が文脈に沿って日本の文化を教えているのである。彼との日本語のレッスンに私の書いたものが多く使うのだが、その内容がパールハーバーであったり、広島・長崎原爆投下であったり、東京裁判南京事件と、彼にしてみれば、「木庵の日本ナショナリズムがまた始まった」と思うことがあるらしい。そこで私は言った。「確かに私には右翼的なことを言うが、その背後に左翼的なことを考えているのですよ。それに私を日本のナショナリストと考えない方がよいよ。私はある組織に所属しておりながら、その組織を他から見る習慣がついている。そうだな、違う惑星から来たと考えてもらえばよい」。彼は言い返した。「なるほど、そういえば、貴方は私が付き合っている日本人とは全然違いますね。そうか、宇宙人か。宇宙人が貴方にぴったりの呼称でしょう(笑)。」
   褒められたのか、貶されたのか分からないが、ひとまず、宇宙人ということにしておこう。国粋主義者ということであれば、私は宇宙から来た国粋主義者なのかもしれない。ところでどこの国の?(笑)。

1) erasusさんの支那の見方は櫻井と大分違う。櫻井は支那を警戒しているが、erasusさんは中国を中華人民共和国の中国ではなく、大国、中国、小国の中国であると言っている。ただ人口が大きいだけで、恐れるに足らずと論破している。このような議論は面白い。逆の発想ということになろう。国際戦略でも、戦争でもこれぐらいのダイナミックな発想がないと、判断を間違える。ところではっきり書くが、今の段階で櫻井の言うのが正しいとかerasusさんの言うのが正しいとか、木庵は結論づけていない。erasusさんの考えは面白いといっているだけである。しかし、国際戦略からいくと、erasusさんのダイナミックな発想は正しいのかもしれない。櫻井の本は、08年4月に出版され、内容的に小泉がどうのこうのというようなところが多く、確かにerasusさんの表現を借りれば、「カビが生えた古い話」なのかもしれない。よく出版会社がやる手に、雑誌に連載されていたものをまとめて本にするというのがある。この本も、賞味期限が切れているのかもしれない。特に、08年9月14日(リーマン破産)を境にして世界は急変した。そういう意味からも、この本の価値は「はじめ」だけで、そこに彼女の支那への基本的な考えが出ていて、後の論調は新鮮さにかけるところがあるといわれても仕方がないであろう。ジャーナリストとは酷な仕事である。過去の発言は雑誌や本で記録として残り、それを鸚鵡返しに言っていたのでは時流に乗れない。だからといって時流に乗ると情報が少ないので判断が狂う。狂えば、ジャーナリストの生命が絶たれることになる。過去に述べたことに対して責任を持たなければならない。そして新しい時代が到来して、過去の自分の言ったことと新しい時代に整合性がないことに気づく。しかし、過去の自分が言ったことを否定すると信用が落ちる。だから、少々現在の動きの分析が外れていても過去の言質に合わせようとする。そうすると、どこか迫力がなくなったり、陰りが見える。それの積み重なりをすると、読者なり視聴者はその嘘を見抜いてしまう。#5で書いた岡本行夫、そして田原総一郎などはその例である。岡本は湾岸戦争において、自衛隊が派兵されないことを憤慨して外務省を辞めた。その判断は立派であったが、もはや殿堂入りしてもよい田原にくっつき、支那を刺激しないことがよい外交であるかの如き発言をして、もはや守りのジャーナリストになった。色々の大企業の役員もしているらしいが、彼はジャーナリストというより異形日本資本主義国の寄生虫にまで落ちている。所詮ジャーナリストや政治家というのは、消耗品なのかもしれない。使い捨てなのである。少しでも新鮮さがなくなれば、ポイっとゴミ箱行きなのである。しかし日本社会が異形の異形たるのは、このような賞味期限の切れたジャーナリストが大きな顔をしているというところだ。賞味期限が切れ、時流に合わないことを言っている方が歓迎されるのだろう。つまりジャーナリズムの賞味期限化ということができる。
2) 大男総身に智恵が回り兼ね」。それが支那である。支那のことは放っておけばよい。支那はチンピラで、支那より脅威なのはアメリカである。支那が独自で日本を攻撃などしないし、その能力もない。支那の選択はせいぜいアメリカと組むことしかできない。なるほど、説得力のある考えである。私の周りの人間を観察すると、嘘をつくような小ざかしい人間は金がなかったり、力がない。そのような人間を相手にせずとも、つまり私がアタックしなくても、誰かがこの人間をアタックする。この理窟ですね。それならerasusさんの櫻井支那いじめ批判は理窟にあっている。では次に、この理窟をerasusさんに返す。中国など相手にせずというなら、日本会議や櫻井に対しても、相手にしなければいいではないか。何故それほど目のかたきにするのか。これも無視すればよいではないか。馬鹿の集団であれば、墓穴を掘るはず。「国民会議、脅威ならず。勝手にしろ」ということにならないのですかね。erasusさんは理想主義者と国粋主義者国民会議)が嫌いで、彼らを撲滅するのを使命のように思っておられる。理想主義者とか共産主義者が国を悪しき方向に導く。国民会議もそうだとするなら、その論点をしっかりとすえて攻撃すればよい。麻生首相に対して、酷評しておられるが、馬鹿であればそれほど攻撃しなくても、自然に消滅する。確かにこのような馬鹿が政治のトップに上り詰めた自民党の体質の問題があるが、「麻生相手にせず」とはならないのですかね。
3) 日本はものづくり国家であったのが、熟練工を軽視する傾向になり、日本没落が始まっているという。ものづくりは日本のお家芸である。先日あるパーティーで、50代後半かな、60代前半かな、一人の日本の男性が愚痴っていた。「自分は理工系で文科系より頭がよいと自負していたのに、会社に入って、ある時期から文科系が大きな顔をするようになった。それは、会社がものづくりに貢献する理工系の人間より、金融などをいじる文科系を評価するようになったからだ。そして、今の金融破綻だろう。我々理工系をないがしろにしたつけが今現れているのだ。愚痴にしてはなかなか良い点を突いている。派遣社員や、低熟練労働者を多く作ってどうなるというのだ。企業が一時の儲けに躍起となり、何か大事な基礎力を忘れているようだ。農業にしても工業にしても行き着くところ人間力である。汗水流して、それも熟練を要する仕事が出来る人間が報われる国家でなければ、国の未来はない。
     アメリカの2X4(ツー、バイ、フォー)工法で住宅を建てると、安く、また地震に強い。それも熟練した大工の手を借りることなく、プレハブを建てるように素人で十分家が建つ。このような低熟練労働者で何でもできるようにするのがアメリカの得意とするところである。バーコードもその例の一つだ。計算が殆ど出来ない低教育アメリカ人にでもレジが出来るように考え出されたのである。アメリカースト制、最低労働者にその仕事を与えるという発想である。アメリカのように低熟練労働者を多く生産することが日本にとってよいことか、もう一度考え直す必要があるであろう。
つづく