海の武士道#11

海の武士道#11
   敗戦で、国民の陸海軍人に対する視点が180度変わった。かつての職業軍人に戦争責任のすべてを転嫁する風潮が全国的に起こっていたのである。戦後内地に帰還した海軍士官たちは、敗戦のショックと国民の批判を受け、彼らをして、「戦死した方が良かった」とさえ言わしめるぐらいであった。
  ところが、高畠や米沢には、こういう日和見的な傾向は微塵もなかった。屋代村村民も同様、戦前戦後の価値観の転換はなかった。村民は、工藤が駆逐艦艦長時代碇泊中に、郷党の兵が表敬のため舷門を訪れると、階級に拘ることなく艦長室に招き入れ、歓待してくれたことを、決して忘れなかった。特に元海軍下士官の二階堂敬三は、戦後、何度も感激を持って村民に次の話をしていた。
   水兵時代に「雷」を訪問し、舷門で「工藤艦長を表敬したい」と当直の下士官に申告したことがあった。下士官は即座に、「兵の分際で艦長表敬とは何事だ」と怒鳴った。そこの折良く工藤艦長が通りがかり、「二階堂君ではないか」と、艦長室に案内し、歓待したというのだ。戦後、工藤は高畠から自転車で屋代村の兄家族を度々訪ねているが、途中、村人たちは農作業の手を止めて、頭を垂れていた。

   1955年、工藤は敗戦のショックからようやく立ち直り、埼玉県川口市朝日町に転居する。夫人かよの姪がこの地で医院を開業することなり、工藤は事務を、夫人は入院患者のまかない婦としての生活が始まった。この頃になると、同期や旧部下が、工藤の所在を捜し当てて訪問するようになる。戦後真っ先に工藤を訪れて来たのが、艦長伝令をしていた佐々木確治、その次が第1砲塔砲手の橋本衛であった。二人とも玄関で「艦長、戦時中はお世話になりました」と発声するや、後は声にならず、ただただ、工藤に肩をたたかれて、涙を滂沱(ぼうだ)するだけであった。
   近所の人も、寡黙で長身の男が、嘗ての駆逐艦艦長で、兵学校出であることに気づいていた。少年たちは、朝夕挨拶し、工藤を畏敬するようになった。少年たちは工藤を訪ねて英語と数学の教えを乞うて来た。子供に恵まれなかった工藤は、彼らをとにかく可愛がった。工藤自身も呆けないように、高等数学2〜3題を、日課のように解いていたという。工藤は、海上自衛隊や、クラスが在籍する大企業からの招きも全部断った。さらには、戦後のクラス会には出席しようとしなかった。工藤の日課は、毎朝、大東亜戦争で死んでいった部下や級友の冥福を祈って仏前で合掌することから始まった。楽しみは、毎晩夫人に注がれる晩酌と、毎月送られてくる雑誌「水交」に目を通し、残った級友の消息を知ることであった。
   1977年暮れ、工藤は胃がんを患い、闘病生活が始まった。市立病院に入退院を繰り返すこと約1年、1979年1月4日、78歳の障害を静かに閉じた。最晩年、工藤は「『雷』の部下たちが俺を待っている」と語るようになったという。いよいよ最期という時、クラスの大井や正木が病室を訪ねた。付き添い中の夫人が、「大井さんと、正木さんですよ」と耳元で囁いた。工藤は「ああ大井か、正木か、貴様たちは、大いにやっているようだが、俺は独活(うど)の大木だったな」と、言いつつ、静かに目を閉じたという。
 
   この7ヵ月後、海上自衛隊練習艦隊が、旭日機を翻して英国ポ−ツマスに入港した。

    練習艦隊司令官植田一雄海将補(海兵74期、少将相当)は、英国海軍連絡士官より工藤元海軍中佐の消息調査を依頼された。依頼主は、元英国駐スェーデン大使で在アルジェリアEEC代表サムエル・フォール卿であった。また惠は同じ頃、英国海軍訓練支援艦L11(1万3000トン)士官室で、リチャード。ウィルキモ海軍大尉から次の激励を受けている。
「惠少尉、我々は日本海軍を尊敬している、ドイツが戦後、海軍旗を変更したが、海上自衛隊は帝国海軍旗を踏襲した。我々はこのことに最も敬意を表している」そして、「米国に敗れたとはいえ、コンプレックスを決して持つな」と言われた。

   「今、工藤中佐夫妻は、川口市朝日にある薬林寺境内に静かに眠っておられる。墓碑も実に質素で、右側面に小さな文字で、工藤俊作、工藤かよ、と書かれているだけである。今年2008年12月、フォール卿は念願叶って工藤中佐の墓参を果たす。泉下の工藤中佐夫妻、「雷」全乗員たちは、これを万来の拍手を持て迎えることであろう。(完)」と惠は結んでいる。

   感動的な話であった。戦時中敵兵を救助する、それも自分たちの乗員より多くの敵兵を救助することがどれほど緊迫した情勢であったか理解できる。救助している時に敵潜水艦が攻撃してくるかもしれないのである。また敵兵が反乱を起こすかもしれない。また、救助した敵兵がまた戦場で敵になるのである。当時日本海軍が勝ち戦をしていた、まだ戦争に余裕があったといえばそれまでであるが、これは文句なしに工藤氏の英雄伝である。また日本海軍が、否日本が誇れる話である。工藤や日本側が宣伝したことではなく、フォール卿という生存者がようやく工藤の墓を捜すしだすという、感動のドラマである。それも工藤は戦後このことについて全く周囲の人に語ってない。英雄というのはこのような人のことを言うのであろう。先日のハドソン川に不時着した機長も驕ることなく、ただプロとして当たり前のことをしたかのような態度であった。工藤にしても、英兵を助けたことなどもう殆ど彼の脳裏になかったのではないか。それより、「雷」の部下たちが海深く漂っていることの方が、心の底に深く留まっていたのではないか。
   フォール卿は工藤の決断がなければ20歳の生涯を終え、外交官として英国に貢献することなど出来なかったのである。現在93歳(?)で、昨年工藤氏への墓参を果たされている。それについては日本の特別なマスメディアだけが報道したと聞く。何故もっと大々的に報道できないものか。日本海軍の誇れる話が日本のマスメディアでは迷惑なようにさえ感じる。
  フォール卿の要請で、工藤氏の消息を捜すのに惠氏は相当苦労を重ねられたと聞く。またフォール卿を日本まで招待して工藤氏の墓参を実現するためにも大変な努力があったと聞く。高齢であるフォール卿の心臓が弱っていて、イギリスから日本までの長旅に耐えられるかという問題。それを実現するためにはリクラインつきのファーストクラス搭乗しか考えられなかったという。元外交官といっても質素な引退生活を送っておられていて、ファーストクラスの飛行機代など出せない。それに、惠氏も、出版会社の倒産で初め予定した2000万円の印税が入らなくなり、窮地に追い込まれていた。後の細かいことは知らないが、日本の善意の後押しがあったのであろう。私の方にもフォール卿とのレセプションの写真が友達から送られてきた。車椅子のフォール卿が惠氏や日本の良識ある人々と交流している姿、これこそ平和外交といえよう。
  昨日、フィットネスセンターで、ちょっと少林寺拳法のまねごとをしていると(私は2年ほどロスの道場で練習したことがある。今は止めているが、健康のために少林寺の柔軟運動とちょっとした型をやっている。ついでに自慢話を披露するが、私の姪は少林寺2段の部での世界チャンピオンである。実は彼女の影響で私は始めたのであるが、すぐに止めてしまった)、アルゼンチンからやって来た人が話しかけてきた。彼も極心流空手を少ししたことがあるという。どうも彼は日本の武士道に興味を持っているようであった。少林寺拳法と武士道との関係などを尋ねてきた。彼にとって、日本的な武道はすべて武士道と関係があると思っているようである。
   アメリカに住んでいると、アメリカ人はもともと性悪説に則った人間観を持っていることを感じる。ところが、一方弱者を助ける、弱者に慈しみの心を示すというような話が好きなのである。現に戦前、強い日本より弱い中国に同情したように。

  大東亜戦争で無慈悲に日本の捕虜を殺した、一般市民を大空襲で焼き殺したアメリカ人の心の中に、工藤のような話には無条件で感動するのである。これは世界の人々の共通の感情であるとおもう。
  惠氏からアメリカでの出版に何か援助をしてくれないかというメールがきたが、私はその方面のことはよく知らない。きっと、近い将来にイギリス、アメリカ、それに他国でも、この美談が自然に伝わっていくと信じる。5000人のビザを発行した杉原千畝氏の話のように。
木庵