海の武士道#10

海の武士道#10
10)一方、7月6日、前日よりキスカ湾に錨泊していた艦隊は、今度は米潜水艦の雷撃を受ける。駆逐隊は甚大な被害を受けるが、「雷」には1発も命中しなかった。当初、雷撃で、湾岸近くに碇泊していた第18駆逐隊「子ノ日」「霰」は沈没、「霞」(いずれも196トン)は艦橋から前部が破断した。第2小隊は、交互に護衛をしながら「霰」を曳航することとなる。パラムシルまで約4000キロを「雷」が曳航し、さらに大湊まで1200キロを「電」が曳航した。「霰」は前部が破損しているため、後進で曳航せざるを得ず、従って速力は10ノットが限界であった。電撃の危険性は極めて高い。しかも「雷」は回航中、追尾する敵潜水艦の交信電波を頻繁に傍受していたのである。
11)1942年11月1日、工藤は中佐に昇任した。兵学校同期のエリート組は3年前に既に中佐に進級していた。
12」戦列に復帰した「響」艦長に工藤はなっている。明朗で親父肌の工藤は、「響」でも乗員に慕われ、艦内は和気藹々(あいあい)とした雰囲気を醸していた。「響」の任務は、トラック島へ航空機を輸送する空母「大鷹」(たいよう)(1万7830トン)を護衛することであった。12月6日までに「大鷹」は3往復し、無事任務を達成した。
13)ところが、工藤の衰弱は倍加していた。工藤は「雷」艦長時代に仕えた佐々木は「24時間の殆どを艦橋にいる艦長の体力は、常人の及ぶところではなかったと思った」と言う。同期が人事局に進言したこともあって、工藤は12月10日に、横須賀鎮守府に転出となった。これで、工藤の海軍生活における艦船勤務は終った。同期の大井は、当時の工藤をこう回顧している。「おおらかで温和な性格のクセに、工藤はことさら機敏果敢な戦術行動が本領の水雷屋の道を選んだ。そのせいか随分とムリもあったらしく、海軍生活の後半は病身がちのようだった」
14)一方「雷」は、艦長交代直後に、外南洋部隊に編入された。任務は「響」と同じく、空母の護衛を担当し、トラック、呉間を往復した。「雷」はその後、10月3日から14日にかけて、ガダルカナル島への陸軍第17軍増援作戦に従事するため、ラバウルから3回、同島へ往復した。

 
<その後、「雷」が神に召されるまでの動向については割愛する。木庵>

1) 1942年12月24日より工藤は、海軍施設本部部員、横須賀鎮守府第一課勤務を命じられる。1943年5月31日には、海軍予備学生採用試験臨時委員を命じられている。 
2) 1943年になると、戦局は深刻の度を増した。1943年4月7日、山本長官は「い」号作戦を発令した。空母艦載機160機を陸上に移し、基地航空隊190機合計350機をもってソロモン方面の敵航空部隊を一挙に撃滅する作戦である。作戦期間は4月7日より14日までの1週間であった。4月18日、山本長官は前線督戦のためラバウルからバラレ基地に向かった際、ブーゲンビル島上空において、ロッキードP38,16機に襲撃され機上で戦死した。
3) 「い」号作戦は期待したほどの成果には達せず、43機を失い、艦載機約半数が被弾損傷した。
4) 北方にも脅威が迫った。5月29日にはアッツ島守備隊が玉砕した。
5) 11月25日には、南太平洋マキン、タラワ両島の守備隊が玉砕した。
6) いまや米軍の侵攻コースは、マッカーサー・ラインと、ニミッツ・ラインの二つとなった。前者はソロモン諸島からニューギニア、フィリピンを通るもので、後者はマリアナ諸島を北上して東京に迫るものであった。
7) 「雷」は、生永邦雄艦長以下乗員244人は、11月24日中部太平洋マキン・タワラ両島玉砕の直前、連合艦隊司令部より、「第6駆逐隊は、マキン島に急行し、島に乗り上げて陸上砲台となれ」と命令を受ける。要するに水上特攻である。ところがこれは直前に撤回された。
8) 1944年2月17日、日本の真珠湾と言われたトラック島を米機動部隊が襲い、三百数十機が一瞬のうちに炎上し、艦艇43隻も撃沈された。ちなみに米機動部隊の兵力は、空母9隻、戦艦6隻、巡洋艦10隻、駆逐艦40隻、潜水艦9隻、艦載機568機という勢力であった。
9) 軍令部は、2月上旬、米機動部隊の北上を阻止すべく、トラックの北西約600キロにあるサイパン島に、第一航空艦隊主力650機を進出させた。
10) 1944年2月21日、第6駆逐隊「雷」「電」「響」は呉に集合し、隊司令は高橋司令に代わって戸村清大佐(海兵49期)が着任した。「雷」轟沈の2ヵ月前である。
11) 1944年3月19日、「雷」は呉を単艦で出港した。これが最後の出撃であった。当時の状況を、田中千代子(掌水雷長、斉藤勇特務中尉夫人)は手記にこう述べている。「一尺八寸も吹雪だった。修身(長男、当時4歳)が『短剣をしっぱって行っちゃいやいや』と泣いた」。そのあと、「雷」はサイパン島に派遣され、そこを根拠地として、グアム、パラオ、バリクパパン方面への船団護衛に従事し、1944年4月12日、サイパン島よりメレヨン島に向け出港した「山陽丸」船団の護衛を命じられた。護衛艦艇は「雷」、「秋風」(1215トン)その他数隻である。なお同島は、4月1日に初空襲を受けて以降、連日敵機による爆撃が続き、「敵上陸間近」と予想さえていた。よく13日午後1時、上空直援機から「北緯10度30分、東経143度51分に浮上潜水艦発見」の報告が入った。「雷」は直ちに、戦闘行動に入り、同海面に単艦で急行し、敵潜水艦と長時間にわたり死闘を繰り返した。午後5時5分頃、ついに通信が途絶する。
12) 米海軍の公刊戦史によれば、米潜水艦「ハーダー」(艦長サミュエル・リ・ディーリー中佐、1525トン)が、午後5時、5分頃、「距離900ヤードから、魚雷4本を発射、日本駆逐艦1隻撃墜」とある。
13) 艦隊司令部は翌14日、15日と飛行機を飛ばして捜査したが、乗員一人も発見できず、15日ついに北緯10度30分、東経144度00分に、最大幅100メートル、長さ3.7キロ(2海里)の油紋を発見したが、船影はおろか遺体も全く発見できなかった。「雷」に生存者なく、当時乗艦者全員251人(「雷」乗員244名、便乗者7名)が散華された。日本海軍の艦艇で、「全員戦死」と、認定された7隻のうちの1隻となった。
14) 工藤は「雷」沈没の情報をすぐには知らなかったが、当日夜、「雷」に残った部下の夢を見ている。兵たちが「艦長」「艦長」と駆け寄り、工藤を中心に輪を作るように集まって来て静かに消えていった。工藤ははっと飛び起きるが、その時、「雷」に異変が起きたことを察知したという。
15) 11月24日、マリアナ基地から発信したB29が東京を初空襲。以降終戦までに述べ3万3041機のB29が日本本土に爆弾の雨を降らせ、29万9485人にのぼる非戦闘員の命が奪われた。工藤にとっても、この年は最悪の年となる。2月20日には父七郎兵衛が死去し、11月29日には自身が急性気管支炎を患い、海仁会病院に入院する。病状がなかなか好転せず、翌年4月4日には肺炎を患い、4月15日に転地療養のため妻の実家である高畠の増淵家に転居した。
16) 1945年(終戦の年)3月15日、待命(予備役寸前)を受けている。
17)五十嵐なおはこう回顧している。「俊作さんは終戦後、高畠の奥さんの実家におられました。隠居部屋に住んで、ひっそり暮らしておりました。仕事がないので、苗木のさし木などをして収入を得ておりました。当時、私は五十嵐家に嫁いでいたので、主人に話して、庭のもみじの大木にさし木を依頼したことがあります」
つづく