海の武士道#9

海の武士道#9
    兵学校の運営に懸念されることがあった。当時の青年に退廃ムードが蔓延し、加えてロシア革命によって階級闘争的な思想が日本にも浸透していることであった。鈴木は、生徒にこう訓示している。
「世間一般の青年は其気概に於て大いに欠ける所あるは何故に其く気概の欠くるに至るやを研究するに試に当今の思想界を観察せば例は其書き物の如き多くは局部的諸相の議論偏する如く或は又多数の新聞等にも真に国家を憂へ又は如何にして日本国民を導くかに就て大局的態度を以て其根本の大精神を示さず唯一局部を捉へて論する等偏重の傾きがあるは其主たる原因たるへしと信す」「日本の兵学校生徒採用方法は平等にして世界中他に其類例を見ない」「英独の(兵学校の)如きは貴族又富豪の子弟ならされは採用せられさる規定あり又米国の如きは普通試験の外代議士の推選なるへからす」
   しかし、生徒には階級闘争に興味を持つ者もいた。扇はクラスの後藤直秀の思い出をこう語る。
兵学校3号(1学年)の時、彼がブルジョアとかプロレタリアとかの言葉を駆使して、階級闘争理論を話し込んできたのに対し、いささかも驚きもし、また私など、たじたじなと感じた記憶が残っている」
  後藤は後に、海軍大学校在校中、少佐で病死した。兵学校出は一般書物の購読を規制していたが、これをすり抜ける者も少なくなかった。机の下の裏側に針金で棚を造り、月刊誌「中央公論」や恋愛小説などを格納し、生徒同士で交換もしていたという。工藤も当時海軍士官を主人公にした恋愛小説「不如帰」に刺激されて、2学年の冬休みに恋愛小説の執筆に挑んでいる。「不如帰」は当時、ベストセラー、ロングセラーとなり芝居にまでなった恋愛小説で、日本版「ロミオとジュリエット」である。

兵学校の中に共産主義に興味のある後藤がいたこと、それも後藤は海軍大学まで行ったということに興味がある。当時軍部にまで共産主義が浸透していった証拠であろう。禁断の書を読みたさという感覚と、共産主義社会主義国家主義が一つのベクトルで結ばれていたというところもあるのではないか。木庵>

第7章 駆逐艦「雷」昇天す
    この章はジャワ沖海戦から「雷」昇天までの経過と、その間の工藤中佐の動向について細かく記されているが、海軍戦史に興味のある人は、本そのものを読んでいただくとして、普通の読者用に、重要なところというより私の興味のあるところだけを抜粋する。
1)3月9日、連合軍総指揮官ハイン・テルプールテン蘭陸軍中将は、全軍に停戦命令をした後、降伏した。当初3ヵ月かかるとされた第一段作戦は、予定より約1ヵ月早く終了した。
2)3月11日、ダグラス・マッカーサー大将は夫人と一人息子、随員20人と、魚雷艇4隻に分乗し、クーヨー島経由でカガヤン島に脱出、されにカガヤン島近くのデルモンテ飛行場からB17,2機に分乗してオーストラリアに逃亡した。有名な「アイ・シャル・リターン」は、この直後オーストラリアでの記者会見で発した言葉である。第6駆逐艦はこの頃、休養と補給を実施しており、マッカーサー拘束という千載一遇のチャンスを逃したことになる。それより、米軍は現地人の情報部員を使って、日本海軍艦艇の行動を逐一監視していたのである。
3)3月13日、第6駆逐隊はフィリピン西方海面に行動、在比米軍の海上封鎖作戦を実施。米軍は南方資源地帯から日本へのシーレーンを遮断しようと、この海域に潜水艦を多数投入し、又機雷も敷設していた。工藤は乗員に気の緩みが生じないよう、先任将校に対してたびたび注意している。15日には浮遊機雷を発見し、機銃弾で処分した他、16日には米国船籍貨物船2席を拿捕、18日には、米国潜水艦1隻を撃沈している。
4)工藤はこの頃から、日本海海戦以来、日本海軍が踏襲してきた主砲発射手順を短縮し、初弾発砲に要する時間を3分の1以下に短縮している。
5)第6駆逐隊は間もなく第1艦隊に編入され、「内地帰還」が命令された。艦隊はジャワ方面から日本へ向け北上する輸送船団を護衛しながら、26日呉に入港した。

<ここでミッドウェー作戦について興味のある記述があるので紹介する。木庵>

5) 山本長官は1942年4月5日に、軍令部から決裁を得ていた。ミッドウェー島を占領して、西太平洋方面の防衛体制を確立し、1942年秋口には、ハワイへ上陸、講和、すなわち第3弾作戦遂行を急ぐ予定であった。連合艦隊司令部は、ミッドウェー島上陸の際には、敵機動部隊がこれを阻止するため出現するであろうから、同時にこれを殲滅するつもりでいた。一方、軍令部は4月初め、連合艦隊が起案したミッドウェー作戦に、猛反対していた。軍令部は、連合艦隊の意志に反し、オーストラリア方面への進出を計画していたのである。山本はミッドウェー攻略作戦を認めさせようと、戦務参謀渡辺安次中佐を軍令部説得のため上京させた。渡辺は、「長官は、ミッドウェー攻略作戦を認められないならば、長官の職を辞めると言っておられる」と、爆弾発言を行い、軍令部を慌てさせた。永野軍令部総長(海兵28期)が山本長官と肌が合わないとしても、山本長官の統率力は海軍部内で群を抜いており、辞めさせるわけには行かなかった。そこで、軍令部は同作戦を認める代わりとして、アリューシャン作戦を併行して行うことを条件とした。戦後、この作戦に対する分析はあまりされていないが、軍令部は、米国が北方のソ連基地を借用して日本奇襲を図るというシナリオを警戒していた。両作戦は、艦船350隻、航空機1000機、将兵10万(陸軍部隊も含む)という、日本海軍史上空前の規模となった。結局は、機動部隊司令部の油断と、兵力をミッドウェーと、アリューシャンに分散したこと、更に暗号がすべて解読されていたことが原因で、ミッドウェー作戦は失敗した。
6) 5月20日、「雷」は北方部隊に編入され、第5艦隊の指揮下に入った。5月31日に、アッツ・キスカ攻略作戦は発動された。北方海域は、夏とはいえ肌寒い。濃霧が絶えず立ち込め、同海域は浅瀬も多く、潮流も速い、艦はある程度速力を維持しないと舵が効かなくなる。かといって視界が悪いため、衝突、座礁の危険が大きかった。工藤の疲労は南方海域とは異なって格段に大きかった。41歳とはいえ、この作戦で身体を相当衰弱させている。作戦終了後の8月初旬、「雷」が横須賀へ帰投する際、洋上で撮影された写真では、工藤は60代に見えるほどである。
7) 話を戻す。アリューシャン作戦は順調に推移した。結果、6月7日、帝国陸海軍はキスカ、アッツ両島を占領している。一方、日本の運命を変えたミッドウエー海戦は、この2日前6月5日開始されていたが、敵空母艦載機の攻撃を受け、「赤城」以下「加賀」「蒼龍」「飛龍」の主力空母4隻をあっという間に失い、一騎当千パイロット100余命を失った。谷川元少将は、当時をこう回顧する。
「出港直前、呉に入港し、街を歩いていると、道行く見知らぬ人から、『海軍さん、今度はミッドウェーだそうですね。また大戦果をあげて下さい』と激励された。次の作戦が一般市民の話題になっているのに驚いたが、恐らく、米国のスパイの耳に当然入り、本国に打電しているのであろうと心配になった。案の定、米軌道部隊は、我が潜水艦が哨戒線につく前に、進出して見事に裏をかかれた」
   谷川元少佐は駆逐艦「嵐」の魚雷をもって「赤城」を処分したとき、「この戦争は負ける」と確信したという。
8) ミッドウェーの敗北は、部内で極秘にされていたが、工藤は艦内で傍受した無線によってただならぬ事態が発生したことを察知した。
9) 「雷」と工藤は武運が強かった。6月12日、「響」がキスカ湾口で対潜警戒航行中、爆撃を受け、爆弾1発が艦首に命中して大破した。このため「響」は単艦でシュムシュ島経由大湊に帰投した。
つづく