海の武士道#8

海の武士道#8
   ここで鈴木貫太郎について述べる。鈴木は身長180センチの長身で、ちょっと前かがみで、黒い眉が八の字に下がって、威張ったところが微塵もなく、大衆からも親しまれていた。ところで、海軍士官は佐官に昇進すると専門域に進む。科目は砲術、水雷、航海、通信、航空等があるが、尉官時代に希望と身体適正で決定された。鈴木は水雷が専門で、日本海軍で水雷戦術を最初に独立戦術として体系化したその人である。砲術が最もエリートコースとされていたが、51期は鈴木の影響もあった、水雷希望者が圧倒的に多かった。このクラスまでは未だ航空が軽視されており、とくにクラスで優秀なものは、航空に行かせないという空気さえあった。クラストップの樋端(といばな)は当初水雷を希望していたが、後に航空に進む、次席の山本祐二は水雷へ、工藤もまた水雷に進んでいる。鈴木中将の教育方針は、「武士道」であった。鈴木はこれに基づいて海軍兵学校で慣習化していた鉄拳制裁を禁止した。日露戦争以降、帝国海軍解体まで生きた海軍軍人の中で鈴木ほど武士道を具現した将官はいない。鈴木の慧眼は、1883年16歳のとき、東京にあった海軍兵学校予備校「攻玉社」で、当時教育者として有名であった近藤真琴に師事したこと、1901年7月(34歳)の時より約2年間、ドイツを中心に、欧州に滞在したことで形成された。なお鈴木は1945年4月7日、大東亜戦争終戦工作を期待されて組閣した。それから5日後の4月12日、米国代32代大統領フランクリン・D・ルーズベルトが脳溢血で急死した。この時、鈴木首相は、同盟通信を通じてその死を痛む談話を発表している。当時これを伝え聞いた在米のノーベル文学受賞作家のトーマス・マンは、鈴木のこの行為を「騎士道精神」と絶賛している。

    鈴木は当時の兵学校生徒を、どう思っていたのだろうか。鈴木の「鈴木貫太郎自伝」によると、
江田島というところは空気が明朗な所で、同時に一般の気風も良い所ですし、こういう所なら一生校長をしていても良い、特に若い無邪気な生徒の相手をしていたのですから誠に愉快なご奉公でした」「兵学校では格別なお話もありません。時々生徒を集めて訓辞や講話をやる、日曜日には生徒が来るというようなものです。それが入れ代わり立ち代り、いつも三,四十人遊びに来ました。それが一つの教育にもなると思いましたから、いろいろな話をしたり、お汁粉を作ったり、寿司などを作ってご馳走したりしました」「兵学校時代私の感じたことは、生徒が私の宅に来て話す間に歴史のことを訊ねて見ますと、誠に当時の中学校の教育に欠陥がある。歴史の知識が欠乏している。特に日本史がそうだ。これでは、国民の精神を振作する上に面白くないと思いまして、それから武士道教育をしたいと思いまして、橘親民という文学士の教授に頼んで、歴史から「武士道発達」の調査をしてもらって生徒に話してもらうように依頼しました」「徳育の方面でもその当時、広島の高等師範学校の校長さんで吉田賢龍という人に依頼して、毎週一回学校へ来てもらって生徒に講話をしてもらいました。その人は哲学に明るい人格者で、教育の方面では有名な人で、高松宮殿下にも、そういう方面のご教育を申し上げたわけです」
   鈴木はまた、生徒の自主性を涵養することに努めた。
兵学校教育に於いては兎角他より知識を注入せらるる傾きありて自ら依頼心を生するに至ること常とす之れ大に警戒せさるへからさることなり。我日本海軍は既に大に発展せる今日凡て独立独歩の覚悟なかるへからす嘗て日露戦役以前に於いて外人は諸種の方面に亘り吾人に教示したる同戦役後我国威発揚し其巨大なる所以を世界に披瀝したるに彼等は忽ちにして吾人に対して秘密主義を採るに至れり就中英米の如きは其主なるものなり此の意味に於て拝英米主義を廃し自立独歩の大覚悟を要すべきなり」

日露戦争英米の支援があって勝利できたが、その後の日本の国力急上昇を警戒し、日本に対して秘密主義を採るようになったという鈴木の証言は興味ある。特に米国との中国での権益競争、そして日英同盟廃棄、太平洋戦争への歩みの前兆戦を、戦争までは意識せずとも拝英米から自主独立を目指した鈴木の発言に注目したい。現在の日米安保の傘からの脱却を唱える論者がいるが、鈴木の発言と比較するのも良いのではないか。私は鈴木のこと海兵のことを、敢えて多く引用している。というのは、私のような戦後生まれは、戦前の海兵などの訓練、生活の様子を余り知らないからである。ここに記しているのは、己の教育のためである。あまり興味のない読者も多いのではないかと思うが・・・。木庵>
 
   鈴木はこれと前後して、生徒にゆとりを持たせるため、日課中、自由時間を多く設定した。これは60期以降(1932年卒業)と決定的に異なる。まず夕食後、監事の「開け」の号令から自習時間開始までの間、約2時間は全く自由とした。これは、鈴木の後任の千坂、谷口の両提督も踏襲している。生徒はクラブ「浩養館」に行って、ピアノを弾き、あるいは「江田島羊羹」をほおばった。又夏期日課時は、夜9時、巡検(点呼)後、屋外での納涼が許されたので、生徒は校庭を散歩、八方園に登ったり、巡洋艦「明石」のマストの下の救助網上に寝っころがって、月を眺め、星を賞でた。ちなみに「明石」は2800トン、国産第一号艦で第一次大戦時、連合艦護衛のため地中海で行動した時の旗艦であったが、廃艦になったため、そのマストを江田島に移設してあった。

   工藤は2学年の進級したある春の日の出来事を、こう語っていた。日曜日はクラスメートの有坂磐雄や愛甲文雄から誘われて(いずれも後海軍大佐)、カッターで瀬戸内海を帆走した。無風の時は、オールで力漕するが、通常は帆を張ってヨットのように水上を走る。12名のメンバーには他に、武義照、小園安名らがいた。武、小園、とも後にパイロットに進むが、武は1928年3月、飛行艇操縦訓練中殉職し(大尉)、小園は終戦時、厚木航空隊司令(大佐)で戦争継続の反乱を起こしたため抗命罪で大佐の階級を剥奪されている。しかし部下の信頼が厚く、戦後、「海軍の西郷隆盛」と呼ばれ、旧部下たちによって官位回復運動が展開された。
   有坂は持ち込んだ小箱から電線を引っ張りだして艇尾からマスト、マストから艇首にそれをつなぎ始めた。クルーが目を白黒させている間に、有坂が電話受信機のようなものを耳に当てて、一人で悦に入っている。工藤は「何だそれは」と、その受信器をとりあげて、耳に当てた瞬間ビックリした。有坂は、電信担当の下士官を買収して、無線講堂に発信機を備え付け、音声電波を発信させていたのである。これは、1921年のことである。日本でラジオが出来たのはその4年後の1925年、NHKラジオの全国放送網が完成したのは、1928年11月5日であった。
    実は、兵学校はこの計画を充分察知していたが、生徒の自主性と個性を育成しようと知らぬふりをしていたのである。有坂は軍人志望とは思えず、工業学校に入ったかのような振る舞いで、机の中はいつも汚く、のこぎり、ハンダ付けの道具、電線、銅板ばかりであったという。教科書はというと、バッグに入れて机の脇のフックに掛けたままであった。年に2,3回ある生徒館点検の時は、雑物をシーツの中に投げ込み、それをくくってサンタクロースのように肩に担ぎ、酒保「売店」の職員に預けた。そして点検が終ると、また雑物を持ち帰り、そのまま机の中に投げ込む、何事もなかったようにどこかへ去ったという。工藤は後に有坂を、「兵学校の最大奇人」と回顧していたという。
   有坂は戦後、物理の高校教師としてカトリック進学校栄光学園で教鞭をとっている。このクルー仲間からは、後に日本海軍の発明家が2人生まれた。その一人愛甲は、真珠湾先制攻撃で威力を発揮した浅海面魚雷(91式改航空魚雷)を開発し、小園は航空機搭載用の斜め機銃を開発し、後の米空軍B17、B29爆撃機迎撃に威力を発揮した。
<どことなく、当時のまだのんびりとした海兵の雰囲気が伝わっている。木庵>つづく