海の武士道#7

海の武士道#7
工藤(51期)は、9分隊に配置された。兵学校の教育システムは、英国のエリート育成校パブリックスクールのそれを踏襲しており、日常生活は分隊単位で行われ、術科や座学は学年別の教務班に分けられた。分隊は各学年が混合して編集されており、1号(最上級生)の自治が尊重された。新入生徒は、対番生徒に引率されて生徒館に入り、制服、作業着、下着を受領した。その後教材以外の私物はすべて親元に送るのである。
   工藤はこの日、白麻、金ボタン5個の制服を支給され、また夢にまで憧れた短剣の支給を受けた。ただこのクラスから制服が変わり、日本全国の青少年を魅了したファッション、短いジャケットから士官制服と同じ通常の上衣になって、工藤たちはもの足りない思いをしていた。しかし、このスタイルは1932年4月、63期では廃止され、再び短いジャケットのスタイルが復活した。
    1920年8月26日、海軍兵学校第51期生徒入校式に際し、第27代校長鈴木貫太郎中将は、兵学校進学を祝福した後、以下の4点の趣旨の訓辞を行っている。
1) 軍隊の目的は国家を保護し、国民の安寧幸福を確保する事である。
2) 我が国軍隊の存在意義は、諸外国のように侵略的野心のためではない、また国内政治を壟断するものではない、あくまでも国家防衛のためにある。
3) 皆は秩序を重んじるべきであることに留意せよ。それは軍規であり、規律である。軍規を乱した軍隊は烏合の集団となる。
4) 上級生を兄として敬い、しっかり勉強せよ!
  
    兵学校入学後の思い出を、大井元大佐は、1975年5月にこう語っている。「(兵学校の教育は)初めから非常に日本離れするような教育をしていましたね」「(わたしどもが兵学校に入ったとき、初めて日本語の教科書を使った。それまで英語の教科書だったんです。その中に英語がたくさん書いてあるんです。シンキング・イン・イングリッシュ・・英語でものを考える。それくらい英語でものを考えることをやった」「兵学校は入ったときからパンを食わすわけだ。私は苦手だった一人だったけれど、みんな苦手なんだ。それで硬いところだけ食べるわけだ。あとのほうはまずくて食べられない。しかし、それくらい兵学校に入ったとこからパンだとか洋食だとかいうもので、体の体質から改造しようとする」(「週間読売」1975年6月7日号) 
   1921年2月には、生徒クラブとして「浩養館」が、従来の木造からバロック式の鉄筋コンクリートに新築された。ここにはピアノが設置されており、終戦まで生徒がそれを弾いていた。1944年に兵学校を陸軍の将校が見学しているが、生徒が娯楽の一環としてピアノを弾いている光景を見て、陸軍士官学校との文化的格差に驚いたという。工藤は、1921年7月には2号生徒(2学年)に進級し、8月26日には52期生徒236名を迎えている。この時、高松宮殿下は正式に52期生徒として入校した。


<私の従兄弟は陸士の最後の入学であった。終戦になったので、卒業したのか定かではないが最後だと聞いている。母の姉の息子で、私とは歳が相当離れていて、従兄弟というより叔父さんという感じであった。戦中の多くの士官が戦場で死んでいった時代であったので応募数も多く、在学年度も少なかったようである。それでも、難関であったとみえて、陸士合格は家の誉れであったという。私は子供のとき、この従兄弟を遠くから眺めていた。気難しがりやで、元陸士経験者というような雰囲気はなかった。陸士入学だけで、まだ職業軍人の域まで達していなかったのであろう。彼はある種のエリート意識があり、彼の職場でトップになるために無理をして、結局40歳という若さで亡くなった。昨年、偶然にも陸士で従兄弟と同じ釜の飯を食べたという人とロスで会った。上記の海兵の分隊単位で行動したという仲間であろう。大体30人ぐらいが分隊の単位であったというが、従兄弟と同じ分隊行動したという人、従兄弟のことを覚えていなかった。名簿で確認したに過ぎないのである。この人昨年で80歳であったから、もし従兄弟が生きておれば、この方のようになっているのかと感慨深いものがあった。そして、生きておれば、当時の陸士の様子などを教えてもらえるのに残念である。木庵>

  1920年12月24日、工藤は冬季休暇で帰省している。工藤の祖母こうは雪が積もっている寒い日、家族の反対を押して、山形県高畠駅まで迎えに行っている。工藤の両親と姉もいた。工藤は兵学校制服で降りてきた。この時代の制服は、帽章と襟章を覗けば士官制服と見分けがつかない、ネービーブルーのそれは工藤の端正な顔を一層引き立てた。鍛えられた身体、洗練された身の振る舞い、駅構内は華やいだ雰囲気に包まれた。他の乗客や駅員もこの凛とした制服姿に足を止めて見入った。一部は、「あの方が工藤家の坊ちゃんだ、大したものだ」と、羨望と敬服の視線を向けた。駅員が、工藤の泰然とした挙動に高級将校と誤解し、駅長室に駆け込んだ、駅長を表敬するため引っ張り出したというユーモラスなハプニングさえ起こった。工藤は祖母に近寄るや、「ただ今帰りました」と挙手の敬礼をしながら微笑んだ。祖母は前かがみの身体を、工藤の直前まで進めて顎を上げ、「俊作!」と言うや、足元から頭上まで視線を移し、制服に触れながら、この姿が夢ではないことを確かめていた。こうは、晩年(1939年)、「このときが人生最高のときであった」と、家族に何度も語っている。工藤は、帰宅するや、祖父の霊前に焼香して帰省を報告した。


    51期は、鈴木校長を含めると、3代の校長の指導を受けた。鈴木貫太郎中将は終戦時の総理として歴史に名を残しているが、鈴木の在任期間は、11月末までの約3ヵ月間で、次は興譲館出身の千坂智次郎中将(海兵14期)が、1920年12月から1923年3月まで、約2年3ヵ月間在籍した。その後、1923年4月より卒業前を、谷口尚(なお)真(み)中将(海兵19期、後大将)が担当した。

   谷口は、1905年より約4年間、米国公使館駐在武官を務めた経験を有していた。このため米国事情は明るく、またリベラルであった。鈴木校長の学校運営を踏襲し、鉄拳制裁を禁止した。また先輩方の偉勲を顕彰するためとして、財閥をまわって浄財を集め、現代に残る「教育参考館」を建設している。一方この頃、海軍部内に士気の弛緩が見られたが、谷口は当時、海軍航空隊育成のため来日した英空軍のロード・ウイリアム・フランシス・センピル大佐の言行を引用し、「率先垂範」「海軍士官は謙虚であれ」と生徒を戒めている。センピル大佐は、日本海軍が官僚化していることを批判し、「スタンピングネービー(捺印海軍)」、「ペーパーネービー(書類海軍)」と直言していた。結局帝国海軍は大東亜戦争で、この官僚主義を打破できず敗北を喫することになる。海軍はセンピル大佐の日本海軍批判を真摯に受け止めた。とくにセンピル大佐が日本を離れる前、当時の首相海軍大将加藤友三郎海軍大臣兼務、海兵7期)は、官邸に大佐を招き、真摯にその批判に耳を傾けている。谷口は、海軍知性派の代表的存在であった加藤友三郎の後継として将来の海軍大臣、総理を嘱望さえていたが、親米派のレッテルをはられ、1931年に艦隊派(対英米米強硬派)によって軍令部長で予備役にされた。
  
   しかし、この3人の中で51期に最も影響を与えたのは、やはり鈴木貫太郎である。また、51期は、遠洋航海後、少尉候補生として、第2期実習に入ったが、当時鈴木は連合艦隊指令長官の地位にあり、艦隊各艦に分乗実習している候補生を激励、指導している。校長在任中は、兵学校生徒に、軍人が政治に関与することを厳しく戒め、「海軍大臣を目指すより、連合艦隊司令長官、または軍令部長を目指せ」と、口癖のように語っていた。要するに、政治より、軍令のトップを目指せというもので、鈴木は、「海軍大臣は文官でも務まる」として、シビリアンコントロールをも容認していた、そして「世論にまどわされず、政治に関与するな」と強調していたのである。つづく