海の武士道#6

海の武士道#6
    兵学校の入学基準は、視力が裸眼で1.0以上と規定されていたのである。我妻又次郎はこのため、兵学校進学を諦め、同志社英学校(現在の同志社大学)に進学し、1895年に、母校の教諭心得として教鞭をとった。以来、1921年10月、55歳で退職するまで26年間、興譲館に在職した。我妻の気性は激しかった。授業中、生徒が居眠りでもしようものなら、容赦なくチョークや黒板消しを投げつけた。反面、情が深く、できの悪い生徒を常時3〜4人自宅に下宿させ、特別教育を施していたのである。
  こういうエピソードがある。英語の授業時間中、工藤に盛んに英語で質問を浴びせる。あるいは盛夏の頃、工藤が少しでも襟元を緩ませると、我妻は「服装を乱すな、これでも海軍士官になれるのか」と怒鳴った。工藤は級友に、「自分が農民の出身であるため、先生はとくに厳しいのか」と弱音を吐いたことがある。級友は言った。「工藤、それは誤解だ、自分たちから見て、君はかえって可愛がられていうように見えるぞ!」
    我妻は、兵学校進学希望者に頻繁に英語の特訓を行っていたが、そのたびに、自分の失敗談を話し、「視力の維持」に配意するよう強調した。工藤はこのため、夜、勉強を終えて就寝する前に、夜空の星を見て視力を鍛えていた。また我妻に私淑し、鉄砲屋町(現在の米沢市中央3丁目)にある彼の自宅を頻繁に訪問している。教育熱心な我妻の自宅には、書生のように生徒が絶えず出入りしていたという。
   工藤3学年時の1918年3月18日夕刻、最愛の祖父が病没する(享年73歳)。工藤は臨終に立ち会えず、一人納屋に隠れて号泣したという。以前、父親が祖父の病状を気遣い、工藤に連絡し、授業を欠席して見舞ったことがあった。祖父はこのとき、横臥しながら一言一句噛みしめるように言った。「お前の務めは学問して兵学校に進学し、立派な海軍士官になることだ、それが自分に対する一番孝行だ、学校を休んでまで見舞いに来る必要はない、今すぐ学業に戻れ。」工藤はこの時、兵学校に4年生からの合格を目指して猛勉強中であったのだ。


    明治新政府は、海軍士官養成機関として、1869年9月、東京築地に海軍操練所を開設、鹿児島(旧薩摩藩)等16藩に貢進生徒の派遣を命じた。翌1870年11月、「海軍兵学寮」と改称、1871年2月からは、生徒を英米両国に海軍留学生として派遣した。そして1876年9月1日、校名を改称、「海軍兵学校」と確定し、校舎も1888年8月1日、現在の江田島に移転した。敗戦までに、この兵学校から6名の総理が輩出している。

    1919年7月、工藤はこの前年、4学年からの兵学校進学は叶わなかった。興譲館最上級の5学年となった工藤は体格は大きいが、かなりひょうきんなところがあった。この頃の工藤の思い出を五十嵐なお(90歳)(工藤の兄の娘)はこう回顧している。「当時私は、9歳でした。夏の暑い日に、俊作さんが家のそばにある清水に、素麺をさらしに来ていましたが、その場でその素麺をあっという間に全部食べてしまったんです」。工藤にしてみれば、兵学校受験に向けて全力投球している頃で、腹も減っていたことであろう。当時工藤は身長180センチ、体重80キロであった。
   工藤はこの年が兵学校受験の最後のチャンスと、とにかく猛勉強していたのである。1920年新春、工藤は再び兵学校を受験した。この年、300名の採用予定に対し、全国4000名以上の若者が受験していた。兵学校の入学試験は、山形県県会議事堂で行われた。当時山形には山形中学、米沢中学「「興譲館」)、新庄中学、鶴岡中学の4校があった。いうまでもなく各校の俊秀が受験した。工藤と同時に受験し、工藤の死に水をとった兵学校クラスの大井篤元海軍大佐は、工藤の第一印象をこう回顧している。「とにかく米沢組には偉躯堂々たる連中が多かった。その中に偉容がひときわ目立ち、顔付や物腰の実に落ち着き払った青年がいた。いや青年というより成人といった感じだった。この成人らしき青年が工藤俊作だったわけだが、その偉容は私をして私のようなひょろひょろは海軍将校に向かないのだと感じさせた。」
   この試験のとき、興譲館4人組(小林英二、佐藤欣一、工藤俊作、近藤道雄)は、同じ旅館に宿泊し、試験も順調に終えた。そして翌日は最終の作文だけという時、全員で気分転換にと映画(活動写真)を見に行き、翌朝全員寝過ごして、あわや失格となるところだった。試験官が心配して門のところに待っており、「折角ここまで来たのに」と諭され、全員神妙な思いにかられたという。

    1920年6月1日、工藤家に海軍省より電報が届く。「カイヘイゴウカク、イインチョウ」と記載されていた(「インチョウ」とは海軍省教育局海軍生徒採用委員長の略)。兵学校入校式は8月26日である。着校指定日は8月11日であった。工藤は、興譲館から兵学校に合格した2人目の平民出身者であった。
    この合格の知らせは、高畠のみか全置賜地区の農民を欣喜させた。工藤は、海兵合格の知らせを真っ先に我妻先生に報告する。日頃謹厳な我妻は、涙をぼろぼろ流して、「良かった、良かった、これからは君らの時代だ」と祝福したという。
    7月下旬、工藤は郷関を後にするが、村内は老若男女が歓喜していた。米沢士族の子弟と、平民出の俊作がもはや同格の兵学校生徒になるのであるから、まさに新時代の息吹を実感していたのである。村では出征兵士を送り出すように、村役場に集合して村人注視の中で、村長鈴木弥平治、屋代小学校校長長山憲一郎の激励を受け、村の各家の代表や親戚、友人、青年会、在郷軍人会、約150人が行列を作り、先頭に日の丸の国旗を押し立てて見送った。工藤の祖母こう(当時68歳)は、「有り難いことだ、生きていた甲斐があった」と目頭をおさえ、2年前に他界した七郎兵衛の遺影をしっかりと抱いていた。両親、姉兄は緊張して村人の祝福に応えていた。工藤は徒歩で高畠駅まで行き、米沢駅で入校同期の面々と合流し、鉄道で呉に向かった。

     江田島は呉から約5キロ離れた離島にあるため漁船で行くことになる。工藤と興譲館クラスの小林、佐藤、近藤も、手ぬぐいで汗を拭き吹き兵学校指定の生徒クラブへと向かった。夢にまで見た江田島への経路を、工藤のクラスの中島忠行元大佐は回顧している。「全国から集まった同じ様な少年達は、兵学校生徒クラブである百姓家の離れ座敷や、お菓子屋の裏部屋から分宿されました。このクラブは大てい親切なおばさんが居て、食事の用意から入浴洗濯のことまで世話を焼いてくれて、殊に入校後も日曜毎の外出には汁粉や松茸飯を作って貰った」。
    兵学校生徒は、夏冬の長期休暇以外は、島外への外出を禁止された。このため、海軍は学校周辺の旧家で、生徒が休日の外出日に「倶楽部」として憩えるように契約していた。こうして工藤は、指定された分隊ごとに割り当てられた生徒倶楽部で旅装を解いた。ここには、黒井明が先についていた。黒井は黒井悌次郎大将(海兵13期、興譲館出身)の甥で当時は逗子に住んでいた。
   ここで驚くのは、工藤、黒井、近藤、小林、佐藤の5人のうち、任官し、終戦まで生存したのは工藤一人であったことである。黒井は少尉任官後、重巡の艦載機パイロットとして活躍するが1933年3月10日、少佐の時、悪天候で乗機が洋上に墜落して行方不明となった。近藤は戦死、佐藤は入校の際の身体検査で落第、その後山形高校(旧制)に進んだが間もなく病死した。小林は兵学校在学中成績優秀で嘱望されたが、卒業直前吐血して退校し、夭折した。
   なお、このクラスは入校が293名で、卒業数は255名である。生徒の出身地を卒業名簿で見ると、一番多いのが鹿児島で19名、続いて広島18名、山形は7名と、合格者の出身別では上位から9番目であった。新入生徒は、視力検査等の最終健康診断が実施され、これに適しない者は涙を飲んで帰宅していった。健康診断をパスした者はいよいよ校内に入り、入校式までの兵学校のカリキュラム、構内施設の説明が行われた。兵学校には「対番生徒」という制度があって、新入生一人に2学年生が一人割り当てられ、兄代わりになって新入生徒の面倒をみるのである。
     当時、最上級の1号には伏見宮博忠融王が学んでおられた。またこの年5月8日から高松宮宜仁親王殿下が兵学予科生徒として特別準備教育を受けていた。つづく