海の武士道#5

海の武士道#5
 
鈴木貫太郎校長、兵学校英語教官リー教授、その妹でかつて文通を交わしたテレサなどの人間関係を含めて、工藤の人柄について、これから読み取っていこう」と、#4で書いたが、兵学校英語教官リー教授、その妹でかつて文通を交わしたテレサについて、他に記述がない。それはそれとして、まず誕生から述べる。   
 工藤俊作は1901年1月7日、山形県東賜郡屋代村で生を受けた。父七次33歳、母きん29歳の次男として生まれた。7歳年上の兄、10歳の年上の姉がいた。当時、祖父七郎兵衛56歳と、49歳になる祖母こうがいた。工藤家の家業は農業で地主、経済的には恵まれていた。祖父七郎兵衛は情が深く、不作のときは、自ら年貢を引き下げて小作人を労わった。またこの家は、代々当主が七郎兵衛の名を襲名してきた。現在、この家を守る七郎兵衛は、工藤の兄の息子で、1967年4月25日に襲名している。最も影響を与えた祖父は農民であったが、士族に劣らない高等教育を受けていた。この祖父は、1886年8月13日、長崎に入港した中国海軍(清国海軍)水兵が市民に暴行をはたらいた事件と、5年後1891年7月16日、中国艦艇合計6隻が品川に入港し、日本を威嚇したことを知ったとき、「日本は、本格的海軍を持たないと、中国にさえバカにされる」と発言したという。その後、日清、日露の両戦争で、海軍が勝利の決定的要因を占めたことを知り、自分の考えに間違いがなかったことを確認して、孫の俊作を何としても海軍士官にしたいと思うようになっていた。
  工藤は、1908年4月、7歳のとき、自宅から約3キロ離れた屋代尋常小学校に入学した。この3年前、日本はロシアに勝利しており、出征した地元出身兵士が凱旋して帰っている。
   工藤が3学年進級間もない1910年4月15日、広島湾で潜水訓練中の第6潜水艇(57トン、米国製)が事故で沈没するという事件が発生した。艦長の佐久間勉大尉(31歳)は、酸素が消耗していく艇内で遺書をしたため、天皇陛下に対し、潜水艇を沈めた責任を詫びた後、「部下の遺族をして窮するものなからしめ給はらんことを」と結び、さらに事故の原因、改良すべき点について呼吸が停止するまで記録していた。これを読まれた明治天皇は、感涙されたという。当初海軍は、事故後、艇を引き揚げハッチを開ける際、凄惨な情況が呈されているものと恐れていた。ところが艇内では、艇長以下14名全員が各配置についたまま従容と最期を遂げていた。その後船体は、海軍潜水学校に運ばれ、歴史的遺産として保管展示された。当時この模様は全国に伝播され、艦長の遺書は全国民の胸をうった。また海軍は、英国海軍式の礼装を着用した佐久間大尉生前の写真を公表した。眉目秀麗、凛とした海軍礼装、そして壮絶な死。多くの日本人が感涙し、青年男子は海軍士官に憧れた。
   工藤が通う屋代小学校でも、この話は朝礼で佐藤貫一校長が全校生徒に訓辞し、責任感の重要性を強調し、呉軍港に向かって全校生徒が最敬礼した。佐久間大尉の遺書を読む校長の声は涙に途切れ、構内は厳粛な雰囲気に包まれたという。
   佐久間艦長の行為は、その後軍歌にもなり、日本列島にこだました。工藤はこの朝礼の直後、担任の淀野儀平に「農民でも海軍士官になれますか」と、尋ねている。淀野は「勿論なれる」と発言し、米沢興譲館中学進学を勧めた。この時代、小学校の身上書には未だ「士族」か「平民」か、記載する欄が設定されている時代であった。
   帰宅した工藤は夕食の時、家族に向かって、「おら、海軍士官になる・・・」と言った。祖父は我が意を得たりとばかりに、喜色満面「士族に負けんよう、一層勉強するように」と、諭したという。当時、兵学校に進学するには、中学5年修了か、あるいは成績優秀者は中学4年から受験することが出来た。工藤は3学年後半から猛然と勉強するようになり、屋代小学校創立以来の高得点を維持し続け、「神童」と称されるほどになっていた。1915年3月、屋代尋常小学校高等科を卒業するが、高等科同期は36名、工藤はトップで卒業し、卒業生総代として在校生、父兄に答辞を読んでいる。

  

<工藤の子供時代、一般農民子弟でも士族と同じように優秀な人間は将校にもなれるという社会機運があった。誰でも将来は大将か大臣という立身出世を志すことが出来るという、少なくとも希望があった時代である。今の時代のように東大、官僚、天下りと利己幸福のためではなく、公、国のために頑張り、奉仕する人間を社会は尊敬する風潮があったのである。それが校長の訓辞になってあらわれ、それを素直に聞く子供たちがいたのである。当時は愛国心が当たり前の現象であったのである。例えば農民の中で工藤のような優秀な人間が高級将校になっていく、そのことは工藤家の誉れであり、地域の誉れでもあった。たとえ農民出身でも士族出身者を部下に持つことができる。四民平等が実感できる時代になったのである。そのような情勢の中で、一般大衆が自然に国を愛することにもつながっていったのである。つまり愛国心とは強制や抽象の概念ではなく現実的に庶民が感じとることができる世界であったのである。工藤は世間からいつも尊敬の眼差しで見られる存在で、一挙手一投足に誉ある皇軍の士官である振る舞いを心がけ、それを見る後輩は彼のようになりたいと思う。このように、社会に集団的向上志向緊張関係があり、それが愛国心と結びついていたのである。近頃若者に愛国心がないので、愛国心を教えなければいけないというような抽象的なものではない。また国の頂点に御せられる天皇が無私の精神を持っておられるということで、日本が上下実にうまく機能していたのである。
   と書くと、余りにも皇国史観過ぎると批判する人もいるかもしれないが、戦前と全く違う空気を吸っている我々戦後派は、少しは戦前の空気を想像するのも良い機会ではないかと思う。私は戦前、戦中の映像を心して見るように心がけてきた。また昔から戦前、戦中を生き延びてきた人間の心の中を覗くように試みてきた。勿論映像や、人間の表情で戦前、戦中の空気を読み取ることは難しいことである。しかし、戦後の空気の享楽に埋没していた人間よりは、透視眼があると思っている。さて、読者の皆さん、特殊戦前透視眼鏡をつけたと思って、これからの工藤の成長ぶりを覗いていきましょう。木庵>

  米沢藩明治維新により山形県に統合された。ここは盆地で海がない。にもかかわらず敗戦までに海軍大将3名、中将16名、少将12名を輩出している。彼らの出身中学校こそが「米沢興譲館中学」である。戦前の中学で提督を出した数では群を抜いている。興譲館中学は戦前、軍人のみならず各界に幾多の人材を輩出している。
  1915年4月7日、工藤は、この「興譲館中学」に入学した。「興譲館」は米沢藩主上杉鷹山(ようざん)によって1771年に設立された。この上杉家の始祖は上杉謙信である。新渡戸稲造の「武士道」には、謙信が敵将に塩を送った話が武士道の典型と強調されている。ジョン・F・ケネディは、「日本人で最も尊敬する人物は、上杉鷹山である」と語っている。

 
<謙信の敵に塩を送る話と、工藤の敵兵救助の話との間に何か因果関係があるように思える。「興譲館」という藩校の伝統精神が、工藤の精神に影響したと見てもよいのではないか。木庵>
   

   工藤の合格順位は第28期生103名中3席であった。工藤はこれから5年間、現在の上新田にあった親戚の家に下宿して、約3キロの道のりを徒歩で通学することになった。工藤の同期生の中には、戦後田中角栄内閣で建設大臣を務めた木村武雄がいた。またこのクラスは医学に進んだものも多く7名が医師になっている。兵学校に進んだ級友は他に3人いたが、戦後まで生存したのは工藤だけであった。なお海軍兵学校に進学したこのグループは卒業まで絶えずトップから5番以内を競っていた。戦前、海軍兵学校は難関中の難関で、有名進学校で常時上位に入っていなければ、合格できなかった。
   工藤は海兵進学を目指して勉強した。当時、興譲館兵学校進学希望者の針路指導を担当していたのが我妻又次郎であった。我妻は同時に英語担当教諭もしていたが、工藤の純真な思いを聞いて、「この男を何としても兵学校へ送ろう」と決心した。しかし、決して甘やかしはしなかった。
  我妻には一人息子の栄がいたが、工藤と入れ違いに、1914年に興譲館を卒業し、第一高等学校に進学している。栄はその後東京帝大を主席で卒業し、民法学者として日本の法曹界に名を残している。このため我妻の家は、現在、「我妻記念館」として保存、一般公開されている。なお我妻栄が東大を卒業した時、彼のライバルで、次席で卒業した岸信介がいた。我妻又次郎自身も、興譲館を1883年に卒業し、兵学校を目指したが、視力検査で落第している。

つづく