GHQ焚書図書開封(西尾幹二)#7

「・・ただ敵の死体と散乱する軍需品の海だつた。これを踏み越え踏み越え進むうち『オイ、女だ!』と石原上等兵が叫んだ。・・・・敵の死体に混つて、立派に軍装した、紛れもない断髪の女の死体が一つ埋つてゐた。閉ざされた中華門にすがりついた慟哭するかのやうな姿で、女がーー女の兵隊がおびただしい支那兵と一緒に死んでいた。」
  中国軍が中国兵を惨殺して立ち去った可能性が高い。もちろん爆弾や何かで死んだケースもあっただろうが、谷口上等兵が報告しているように、中国軍が自軍の兵士たちを殺して逃げた可能性が非常に強いと思われる。谷口上等兵は見るべきものはきちんと見ていることが分かる。(注:coffee氏のコメントを参考あれ。【中国軍の『堅壁清野』という焦土作戦を最も恐れていた 7月31日に蒋介石は『中国人の一人も、一塊の土をも、灰燼に帰せしめて、敵の手に渡さぬ決意である』と表明し、中国軍は日本軍の前に何一つ残さないように南京を焼き尽くすだろうと囁き始める。 結局、南京に残ったのは、旅費も無く逃げたくても逃げられない『貧者の中の貧者』だったと。】この辺は虐殺捏造派の笠原十九司なども述べていますね。)
「・・・逃げおくれた敵兵が四人、五人とヒヨロヒヨロどこからともなく現はれて、私たちの前で両手をあげた。私たちはこの連中を次々と捕へ、さつそく地雷堀りに使つてやつた。敗残兵たちは、得得とした顔をして、己れが埋めた地雷を掘りかへした。私たちは地雷を掘つたり、敗敵を捕へたりしながら清涼山に登つた。・・・清涼山の麓には敵の軍馬が幾頭となく畑の麦を喰つてゐた。置き去られた軍馬は敵軍である私たちを懐しさうに優しい目で眺めたり、駆けてきて、手綱も取らぬのになんのつもりか私たちと一緒にいつまで列(なら)んで歩いて行つたりした。軍馬が放たれてゐた畑の横には、敵の兵器庫があつて、その中には重機や指揮刀が山と積まれてあつた。指揮刀は柄から鞘まで黄金作りの黄金の獅子頭が柄に二つ、鞘に二つついてゐるのが将官用、柄と鞘に一つづつついてゐるのは佐官用、柄にただ一つついてゐるのは尉官用と想像された。・・・」
<南京から蕪湖へ>
「・・銃も捨て、帯剣も無く、青や黄色の軍服だけの着のみ着のままの敵兵が百人、二百人と、軍靴もなくはだしで次から次へと道を進んできた。・・・敗戦の打撃と、逃走の焦燥からきた絶望は一切を懸念して不貞(ふて)ぶてしさまで変つて、逃げるのでもなく、進むでもなく、一切の意志を捨てただ浪(なみ)のまにまに漂う浮草のやうな動きしかなかつた。南京から蕪湖への街道はこの絶望的な敗残兵で一ぱいだつた。しかも彼等が戦ひの意志を捨てて漂白するこの街道の左右には、驚くべき堅固な近代的銃座をもつた防御陣地で一ぱいだつた。街道の両側、畑の中に掘られた蜿蜒(えんえん)たる塹壕、草をかむつたトーチカ、無数に張りめぐらされた鉄条網。・・・蕪湖への進軍だけで手一つぱいだつた。それなのにこの千に余る敵敗残部隊をどうして養ひ、そして処理したらいいのだらうか。・・・・ハタと当惑したのである。・・・」
<平和でのどかな南京の正月風景>
「・・・南京から遥々(はるばる)とやつて来た衛生兵が、二人の敗残兵をつれてきた。・・・
『この大きくて馬鹿なのがいいかい。それとも小さくて利口者の方がいいかい』・・
『大ツきい方がいいな』
『ち゛や、この大きいのを一時貸してやろう。君の隊へくれてやるんち゛やないぞ、貸してやるんだぞ』・・・この『ノツポの李』を私の従卒にして、荒木准尉の當番の用を手伝はせた。・・私が李を荒木准尉の部屋に連れて行くとボーとしてゐるくせに李は最敬禮をした。荒木准尉が、
『こいつは、俺が将校だといふことを知つとるぞ。今晩俺を殺すかも知れんなア、一つ試してみるか』といはれた。そして、准尉の隣の私の室(へや)にピストルや軍刀をわざと目につくやうに放り出して、ここに李一人を寝かせて私には別の室(しつ)に寝るやうにとゐはれた。私はさすがに心配だつた。一晩中寝らられなかつた。ちょいと寝台に入つたまたすぐ准尉の室へ行く。准尉の鼾(いびき)と李のとても大きな鼾が聞こえてゐる。・・朝が來た。・・・慌てて李の室へ飛んで行つた。或いは李が反対に殺されてゐるか、それとも逃亡してゐるかーー私は室のドアーを開くと、炭のガスの匂ひがプーンと鼻を打った。・・李がポカーンとそつぽを向いて火鉢に當つてゐた。・・私は思わず苦笑した。そしてーー李を、可愛い奴だと思つた。
蕪湖の街はたちまち復興して物賣りの数は一日々々と増えていつた。女や男の子供が、玉子や葱などいつぱい籠に入れてしつこくつきまとふ。ベラボウな懸値をいつて、葱一束で『拾銭(イーモーチエン)』といふ。『二つで拾銭』と指二つだしてみせても、首を振つてなかなかまけない。私たちは早速、李に十銭持たせてこれを買ひにやる。李は『ウンウン』と合点してすぐ走て行く。しばらくすると眞ん丸い顔の大きな鼻をぴくぴくさせながら五束も六束も抱へてきた。・・・
李は何でも持つてきた。どこをどう探すものか。・・・馬糞と小便壷のほかはなにもない筈の小屋からも必ず綿入れの一枚、銀の水ギセル一つくらゐは探し出してきた。『李、どこから持ってきたツ』と決め付けても。徴発の水ギセルで早速スパースパーやつてそつぽをむいてゐる。『コラ!あつたところへ返してこい』といつて銃剣をとつてみせると、なぜおこるのかといふ風に、眞ん丸い頭をひねつて不審さうに考えたりする。』
<現代の中国の人がこの記事を読めば、どう思うだろうか。中国人を一段下に見ていると言うかもしれない。日本のある種の知識人もそのようなことを言うような気がする。これは純然たる当時の一般日本兵と一般中国人の触れ合いである。どちらが上とか下という問題ではない。地理を離れ、歴史を異にしたる二つの民衆の触れ合いなのである。片方は勝者、片方は敗者というのでもない。ただその場その場を生き抜こうとする民衆のしたたかさなのである。
  「新erasusさんへの反応#13」で書いたが、私はロスでアパート経営をしている。テナントの中に『泥棒さん』(私が付けたニックネーム)(彼の葬式は今日)がいたのだが、彼にば泥棒は悪いことであるという認識が全くなかった。彼にすれば、アメリカ社会の最下層の人を最低賃金で貪り食う資本家が悪いのである。少しぐらいの物を店頭からいただいても神様に背いている行為とは思っていなかった。神様は誰でも同じように富を与えてくださったはずだから、持てる人から頂く。そのように考えていたところがあった。何はともあれ、我々日本人が律儀に考える道徳観は日本を離れると全然違って捉えられる。その意味でも。この谷口上等兵と李とのやりはほほえましい。谷口は日本と中国の文化の違いを十分理解したうえで李と接してしていたのではないか。そして、その違いを少しユーモアを交えて表現している。李の行為に別に向きにならず、おっとりとして対処する人間谷口を彷彿させる。当時の日本の兵隊には、彼のようなどことなく朴訥として鷹揚としたところがあったように思う。ギスギスしているのは、近頃の日本人ではなかろうか。ところで、荒木准尉のくそ度胸も、読み手に爽快感を与える。このような焚書になった本を読み、当時の日本人の生死の間をさまよいながら、人間としての心の余裕、豊かさを持ち続けていたことを知るのもよいのではないか。それにしても、当時は大東亜戦争の末期ほどの索漠とした時代ではなく、たとえ多くの死傷者を出しているとはいえ、まだ戦争に余裕があった時期なのかもしれない。この焚書は、勿論、南京大虐殺否定説に重要な資料を提供したことには間違いない。>
つづく