詭弁法(erasusさんの)#1

古代ギリシアの時代、詭弁術が政治支配に大きな力になった。だから、ソフィストに金を払っても「詭弁家」になろうとした。相手をうまく言いくるめる方法
のことを「詭弁」と呼んだ。 
  小野田博一の著書『正論なのに説得力のない人ムチャクチャでも絶対に論議に勝つ人』(日本実業出版社)の中で「説得力には論理のキズが必要」と述べている。 詭弁に「〜だろう」「〜かもしれない」など、結論を曖昧にすると説得力を増す。「ネス湖ネッシーがいないことを証明した者はいない。だから、ネス湖にはネッシーがいる。」、「ネス湖ネッシーがいないことを証明した者はいない。だから、ネス湖にはネッシーがいるかもしれない。」という二つの文を比べた場合、論理の欠陥を指摘できる前者より、指摘ができない後者のほうが説得力が増すと言える。逆に断定できる根拠がある場合は、断定したほうが説得を
増す。」
 「詭弁術の考察」という記事がある。詭弁術 、人格攻撃 、相殺法 、二分法 、統計の利用1 、統計の利用2 、関連性をこじつける 、論理間違い 、ギャンブラーの誤謬 、ドミノ理論 、短絡的な思考 、未知論証 、幻惑論証 、伝説・諺の利用 、単語を別の意味で使う 、権威論証 、消去法 、原因の誤謬 、つかみどころのない言葉 という項目ごとに、興味のある議論がなされている。最初の文はこの記事の「詭弁術」の最初の部分を木庵が適当にまとめたものである。
   さて、詭弁術を得意となさるerasusさんの詭弁を分析することにする。ただし、上の項目で述べられていることを一切参考にせず、木庵独自の分析をおこなう。ここから、論述をより無機質にするために、erasusさんをEにする。
   Eの詭弁術は大学時代、徹夜して友人と議論した結果などによって得たものであり、彼独自が編み出したものであるという。それに合わせて、私もどこかの哲学者の詭弁法を参考にせず、私独自の考えで、Eの詭弁を分析する。
   まず、Eが指摘しているように、攻撃する人物を舐めてかかる。どのような権威ある人物でも所詮人間、彼、彼女が言うことに、必ず論理的欠陥が生じる、その欠陥を衝けばよいことになる。ここで、Eの衝き方の手法があるようだ。二流、三流あたりの人物の論理の不整合はすぐに見分けることができる。ところが一流あたりになるとその論理性の欠陥は見えにくい。しかし、人間である以上必ずボロがある。ここで、Eは歴史上の人物をハイエラキーの中で位置づける。所謂、E流曼荼羅である。文化人、宗教界の最高位が空海であり、軍人の最高位が永田鉄山である。Eの表現によれば超超超一流から超超一流、超一流、一流、二流、三流、四流と下がってくる。攻撃する人間がこのハイエラキーのどこに位置するか判断する。その作業をするためには歴史上の人物や現存の人物を実によく観察、研究している。日本人の常として、相手を立てる、尊敬することから始めるところがある。学校では「先生を尊敬しなさい」と教わった。だから教師は賢いものと思ってしまう。教師の中の善し悪し、ましてや能力別にランクづけなどしない。ところがEは子どものときから大人をランクづけして見ていたところがある。Eの鑑識眼からどのような人物もこのハイエラキーの中のどこに位置するかを見ることができる。子どもを本物の骨董屋に育てるためには、子どものときから本物だけしか見せないという話がある。そして、ある程度年を重ねると、本物と本物でないものの区別など自然につくという。本物と本物との見分けがつけば、後は本物でないもののランク付けなどどうにでもなる。私の観察ではEのもつ本物の人間か人間でないかの眼識は、父親から受け継がれたようである。厳しい父親を嫌い、避けていても、父親という存在が本物か本物でないかの基準になったようである。本人も、知的に、肉体的に、相当高いところにあるという意識をもつようになり、自分の自己鑑定ランキングから上や下のランキングを想念するようになったのではないか。この鑑定法は緻密である。特に戦後の平等主義に汚染された一般日本人にとって、逆に新鮮でもあり、また理解に苦しむところもある。しかし、これはある意味の社会科学的(?)分析法で、ある国家とかある人物をどの位置にあるかを俎上させることができる。カースト制を印度にだけにとどめることなく、どの国も存在するとEは主張する。ハイエラキーを国家の中で浮き上がらせ、その中での人物の位置づけをおこなう。Eは和辻哲郎の「風土」を国、社会を分析するのに最高の書物と考えている。人間は環境の産物である。また人間は猿と同じように、階級を作る動物である。同じランキングというのはない。同じ顔の人がいないように、全く同じ才能をもっている人はいない、同じ物を持っている人もいない。そうであるので、どのような人間もハイエラキーの中で捉えることができる。
 そこでEにとって、左翼、右翼、国粋主義、改革主義、保守主義復古主義社会主義共産主義、などの言葉の定義づけが重要な作業になる。なぜなら、ある人間を社会のどこに位置づけるか判断するのに、これらの主義、言葉の定義をしておかなければことが進まないからである。厳密な定義づけがなされているのであるが、読者にとって、例えば保守主義復古主義の違いなどそう違わないのではないかと思ってしまう。Eにとって、そこをしっかりと把握していないと前に進まない。
  この定義づけは、ある人間を判断するのに、右翼、左翼、国粋主義者というようなレッテルを貼ることになる。レッテル貼りは十分検証され上でのものであるのは言うまでもない。例えばある人間を「国粋主義者である」とレッテルを貼ったとする、その場合この人物が国粋主義者であるという理由づけが十分なされている。そして2流、3流の人間、それも歴史上、また現行上、日本国民に多大の迷惑や損害を与えた、与えていると判断した人間には、「薄ら馬鹿」とか「糞」というような形容詞がその人物の前につく。それは一般的なハイエラキー史観を嫌う人間、また紳士、淑女気取る人間にとって、嫌悪すべきものであるが、Eは気にしない。確たるEによって検証したものであるから、敬称などつける必要はないと思っている。その切口は鋭く、毒気さえ持っている。勿論社会科学にタブーなど存在しない。誰もがしない一刀両断も許されるのであろう。
 ただ、批判のための批判と言われても仕方がないところが時には発見される。そこがEの詭弁なのであろう。例えば木庵がAだと書く、そうすると「イヤAではなくBである」とくる。そこで、木庵は「よく考えると確かにBは正しい」と書き直す。そうすると、「そうかな?」とくる。考えてみればAが間違いでBであると考え直したのも、木庵の脳を通したものであるから、「そうかな?」ということになるのだろう。また、たとえ自分の言ったことも、一つの表現としてあがった以上、それを批判してしかるべきことなのだろう。
  とても頭のよい幼児が、母親のどのような言葉にも、「ちがう、ちがう」と言う傾向があるが、Eもそのような類ではないかと思うことがある。しかし、そのように見るのは失礼なのだろう。幼児と違って、攻撃する相手の論理性の矛盾をしっかりついいているからである。幼児はそのようなことはしない。ハイエラキーのトップの空海、永田鉄三の目から見れば、アラはいくらでも見えてくる。一番高い視点から料理するやり方がEの詭弁法なのであろう。
   今木庵は、西尾幹二の「GHQ焚書図書開封」について書いている。書評であるから、本の内容だけに焦点を絞って書いている。Eはこの西尾なる人物、彼の学者としての能力、またディベートの能力などを分析してくる。実はこの横槍は人物査定に役立つことが多い。本の中に埋没してしまって、その作者の思想なり人間性なりに及ばないことがあるからである。西尾だけでなく、田母神、姜尚中東条英機秦郁彦などの人物を浮かび上がらせてくれるのに貢献してくれた。Eの詭弁は淀み、固定化しがちな思考を破壊、活性化してくれる上で役立つ。それだけにエネルギーがあるのであるが、さて、真理探究という、つまり論理の整合性を求めて、神の領域にまでいこうとするものがあるかどうかは疑問である。今のところEの詭弁法はある意味のアナーキー的な詭弁法と位置づけられるのではないか。西洋の詭弁法の王道は神なる完全無欠な、また神の概念ではなくとも数学的な純粋論理に吸収されていくものがあるが、Eの手法は違うようだ。しかし、活性化、それに真理探究という面でも、今後も大いに期待し、活躍してもらいたい。そして、もっと破壊力を期待したいところだ。枝葉末節的な議論ではなく。
木庵