新erasusさん問答#3

「百人斬り競争については、犯人とされる旧日本陸軍大尉が故郷鹿児島県において地元の小学校や中学校で捕虜殺害を自ら公言していたことを調べ上げて、1991年に日本大学法学会『政経研究』42巻1号・4号にて発表している。」
<百人斬り競争は当時の確か毎日新聞(?)で報道されと思うのだが、私は完全な濡れ衣であると思っている。鈴木明著『南京大虐殺まぼろし』pp67を参考にする。

「彼女は、虫の知らせもあって、『もしや、百人斬りのことが問題になるのでは・・・・?』と彼にきいた。彼は、『あんなことは、ホラさ』と、事もなげにいった。『何だ、それじゃ、ホラを吹いて、あたしをだましたのね』と彼女がいうと、『気にすることはないよ。大本営が真っ先にホラを吹いてたんだから、そんなことをいい出したら、国中にホラ吹きでない人は一人もいなくなる−』と、真面目な顔をして、そういった。」

とある。当時威勢のよいことを喋る傾向があったようである。私はロスで陸軍中野学校一期生、陸軍大学卒業、硫黄島の生き残りの人(8年ほど前に亡くなられた)から、また彼の息子さんから聞いているが、陸軍大学卒業の将官であることは当時ヒーローで、時には地元で講演会に招かれたのだそうだ。そこでは威勢のいいことを言ったという。ましてや諜報部に所属していたこともあるから、聴衆を煙に巻くようなことも喋ったのだろう。現に生存中の彼の言動さえ、どこまで本当でどこまで嘘か分からないところがあった。秦郁彦は、「犯人とされる旧日本陸軍大尉が故郷鹿児島県において地元の小学校や中学校で捕虜殺害を自ら公言した」ことを、証拠として採用したいのだろうが、捕虜殺害と「百人切り」は別の問題であるし、「そのようなことを調べて、元日本兵の罪を断罪しようとする動機は何なのかということを逆に問いたい。日本全体が野田、向井は免罪であるという認識に傾いているときに、「そうではない」と警鐘をなげかけるためか。恐らく免罪であるという証拠が出尽くす前(?)の記述ではなかったか。勿論、客観的に過去を調べるのは良いことだが、子孫までが侮辱されているのに、「なぜ」というのが私の率直な気持ちである。それに野田であったか向井であったか忘れたが、当時南京にいなかったというではないか。いなかった人間がどうして殺害が出来るというのだ。>
東條英機は、仮に東京裁判が無くても死刑に値する犯罪者である、と著作『現代史の争点』で主張している。」
<この発想は支那人朝鮮人の発想である。死人に鞭打つ、死人のあらを探し、それを断罪する。「GHQ焚書図書開封」でも述べたが、「戦争責任追求」は海外からのプロパガンダによってなされた。秦もこのプロパガンダ汚染者とみてよい。>
張作霖爆殺事件に関しても一次史料に基づく先行研究に依拠して河本大作大佐を中心とする日本陸軍の犯行であることを主張し、「張作霖爆殺はコミンテルンの仕業」と主張する人間たちを事実に基づかない妄言であり歴史を捏造するものとして『文芸春秋』や産経新聞「正論」欄で批判している。」
<私はコミンテルンの仕業という見解の論文をいくつか読んでいる。これは過去の出来事であるのではっきりしたことなどいえるはずがないが、精細な研究が必要であろう。秦の「事実に基づかない妄言であり歴史を捏造する」という表現、特に「妄言」、「捏造」という表現が気になる。少なくとも私の読んだ論文では、張作霖反共主義者コミンテルンによって殺されたという新しい証拠の資料を提示していた。それを「妄言」、「捏造」とは、もはや秦は時代遅れの学者であると言えるだろう。>

慰安婦論争についての評価
秦のこの問題についての見解は、権力によって具体的に強制されたかどうかという点に判断基準を置かないなら、当時の世代すべてが強制連行されたことになってしまう、というものである。
否定
日本近現代史や軍部の政治史を専門とする永井和(京都大学教授)は、…自身のブログで、『慰安婦と戦場の性』について、秦が「おそらく、(略)大多数を占めるのは、前借金の名目で親に売られた娘だったかと思われるが、それを突きとめるのは至難だろう。」と結論については支持しつつも、結論に至る論証の手続きについて実証史家としては問題がある、などとしている。」
そして、erasusさんのコメント、
 「−秦郁彦錚々たる経歴を誇り、その知能と業績も申し分ないと言えよう。
 о姜尚中ずれよりは、なんぼもマシ
 −であろう。
 оその言、耳を傾けるにやぶさかならず
 −で、よいのではなかろうか?」
<恐らく数年前まではよかったのだろうが、今じゃ、時代に乗り遅れた過去の学者ということだろう。考古学的に彼を研究するのは結構なことだが。勿論姜尚中と比較すると秦郁彦氏に失礼であろう。>

唐沢俊一氏については北岡伸一批判の次にやろうとしたのであるが、それをやめた人物である。


「>出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
研究者の反応
この論文の歴史観について作家でと学会会員の唐沢俊一は「トンデモ陰謀論の典型的なパターンが現れている」とした。また論文について現状に対する状態に憤りを感じられるが、安易に「誰々が悪い」という判断にいたり、「言いたいことを言った」という自己満足に浸っている陰謀論者によく見られるものであるとしている。その一方で唐沢が問題にしていることにブログなどで、ネットの世界では「どこが悪いのか」という声が多いことだとしている。これは複雑な政治問題を、黒か白か、右か左かとはっきりさせ、一方を「悪」とすることで片付けようとする傾向があり、悪役を手っ取り早く見つけたいという欲求の現れである。結果として考え方の豊かさや多様性が失われているとしている。結果として論文は陳腐で幼稚だとするのはかんたんであるが、陰謀論に空幕長という要職にある人間がはまってしまう現状の危うさがあることに、気が付かないといけないとしている。」
ウィキペディアではまともに見れるコメントになっている。いまさらやめたことを振り返すのはおもしろくないが、実は唐沢が朝日新聞で田母神批判をした文章そのものが、「トンデモ陰謀論の典型的なパターンが現れている」文章なのである。自分の文章がトンデモ陰謀論的な書き方であることを唐沢は気がついているのかいないのか分からないが、私にはそう映る。「と学会会員」かどうか知らないが、雑学の大家であるだけ。「トリビアの泉」に多くの資料を提供したらしいが、所詮雑学者は雑学者。どのような問題でも適当なことは言える。それも説得力のあるような書き方で。彼の文章の最初に、彼自身がトンデモ陰謀論的な書き方をしているところをお見せする。「世の中には荒唐無稽な主張を展開する『トンデモ本』があふれている。私は、トンデモ本を研究する『と学会』会員として、数多くのトンデモ本を読んできたが、田母神論文にはトンデモ陰謀論の典型的なパターンが表れているように感じる」。まず敵とするものに対して、トンデモであるという印象を与える。これこそ、トンデモ陰謀説手法を好む人間の書き方である、>
Erasusさんのコメント
 「#唐沢俊一とは確かニフティサーブのコメディフォーラム(FCOMEDY)で、<Forum Manager(SysOp)>唐沢俊一・<SubSys>岡田斗司夫のコンビでやっていたはずだ。わたしも書きこんだことがあった。けっこう頭がいい人物であった。」
<勿論、頭がよいであろう。何せどのような問題も、トンデモ陰謀説にしてしまうのだから。>
つづく