新erasusさん問答#1

新タイトルに変えた。コンピューターにタイトルごとに保存し、その上に書き込んでいるが、新しく書き込むのに、マウスを移動で時間がかかる。新しいタイトルなら、すぐに書き込める。この新タイトルも#10ぐらいをめどに、それ以上になるとまた変えるであろう。
1) シビリアンコントロールの問題、とても興味がある。重要な国家の問題であるが、今のところ反応しないことにする。いつかするだろう。田母神擁護論をしていて、そこからerasusさんがシビリアンコントロールの問題をもちだされた。田母神擁護論の中でこの問題を論じるのは不利になる(擁護できなくなる)、やめておく。卑怯な態度(笑)。erasusさんのこの問題に対する提示、真摯に受けとめている。
2) 「現場指揮官に指揮統率の一任を認める」問題。シビリアンコントロールの問題と絡ませて、今後追求していく問題であろう。何はともあれ、防衛大学や一般大学でも防衛学を総合的に研究する必要があるだろう。
3)学生時代の私は、全共闘などの動きについていけない劣等生であった。2,3回義理でデモに参加したことがある。積極的にシュプレーコールなどする気持ちにはなれなかった。ただ、当時どこかおかしい、特にマルクス主義に汚染されている仲間の精神構造がおかしいということを直感的にわかった。しかし、彼らを論破できない自分がなさけなかった。論破できるだけの知識を私は持っていなかったのである。ただ当時の学生が学生運動の熱に意気揚々としているのに対して、私は内に篭った。読書に集中した。ありとあらゆる分野を読み漁った。どちらかというと、東洋を求めるものが多かった。小説はあまり読まなかった。絶えず5冊ほどの本を平行して読んでいた。重要な本はノートして読んだ。
4)erasusさんは私が哲学を系統的に勉強していると書いておられるが、そうではない。西洋哲学など、日本では大学の教養課程で勉強した程度で、読書でもせいぜい実存哲学に興味を示した程度で、西洋史の流れなどよくつかんでいなかった。西洋哲学を勉強し始めたのは一応アメリカに留学してからである。留学とは聞こえがよいが、ほとんど英語ができない状態の留学であった。最初から哲学を勉強することは決めていたが、哲学のどの分野を勉強するかなどの基礎的な知識もない状態での、哲学専攻であった。アメリカに留学するならもっと実利的なビジネスとか法律とかの専攻にしてはと、周囲は心配していたが、哲学に決めた以上方向転換する気はなかった。哲学で飯が食えるわけではない。飯が食えるといえば博士号を取得して、大学の教師になるぐらいしかなかった。英語の力のなさから、気の遠くなるほどの道のりであった。将来はどうなるかわからないが、勉強できる間は勉強しようという、将来の生活にほとんど希望がもてない状態での勉強の継続であった。私はアメリカに学問をしにきたというより、苦しみにきたようなものであった。良く言えば、修行僧のようであった。哲学という日本語でしても難しい学問を英語ですることの難しさは、誰にも理解できないであろう(英語の完全理解者以外)。それも、実に非効果的な学習であったのだ。ほとんど亀のような歩みであった。「アメリカ界隈まで来て、私は一体何をしているのだろう」という思いがいつも頭に過ぎっていた。
  だから、erasusが思っておられるほど、私は西洋哲学を系統的に知りもしないし、勉強もしていないのである。ただアメリカで哲学を勉強する前と後とでは少しは考え方が違うようになったかなという程度のことは思うが。もう一度言う、私は哲学を系統的には勉強もしていないし、把握もしていない。ただ言えることは二つある。その二つは二人の哲学の先生から影響を受けたことだ。一人はベンソン先生。論理実証主義創立者の一人ルドルフ・カルナップの一番の理解者、継承者(?)といわれる人である。この先生、学生に評判がとても悪かった。なぜなら、難しすぎるからである、私が学んでいた3流の大学で、ハーバードのような高いレベルを要求したのである。また彼のクラスの記号論理学は、私の大学から他の大学の博士課程に進むとき必修なのである(私の大学には博士課程がない)。だから、博士課程を目指す者は彼のクラスを受けざるを得なかった。そして“C”でもとろうもろなら、たとえ他の教科、形而上学とか倫理学などが優れていても、博士課程進学を諦めざるを得なかったのである。この必修科目を避けられないが、他の教科は避けられる。だから彼のクラスはごく少数になることが多かった。私の場合、言語的な問題があるから、逆にベンソン先生の教科を多くとることになった。記号論理学はどちらかというと数学に近い。それより将棋の詰め将棋のようなところがあり、頭が必要なのである。私はこの詰め将棋のような問題を解くのが得意であった。
  ベンソン先生から哲学そのものはほとんど教えてもらっていないといえる。実は私が受けた先生の哲学のクラスは。哲学そのものを教えているというより、哲学を勉強するための基礎学力をつけさせるためのものであった。それも徹底した基礎学力を。彼の哲学のクラスでの修養は、大工見習いが家を建ててもよいと棟梁より許可を受ける前に、カンナの使い方、それ以前にカンナの刃の磨き方、ノミの使い方、磨き方の訓練をするようなものであった。私に言わせれば、ベンソン先生は学者として、一度も自分で家を建てずに、カンナ、ノミに拘ったのではないか。勿論先生は家ぐらい建てる実力があった。しかし、彼のもっているカンナ、ノミがよくないと思い、建てなかったのである。彼より実力のない学者が家を建てているのに。先生が素直でないのは、他の学者が建てた家にけちをつけることであった。アメリカ哲学会で権威者としえ認められているような学者の論文を、「論旨があいまいであるとか、論理的に間違っている」と非難し、時には直接、批判する相手にその理由を手紙で送ることがよくあった。ほとんどの場合、無視されていたと思う。「ただしつこい、田舎大学の学者」程度にしか見られていなかったのかもしれない。ただカルナップとか本当のトップ級の学者は、ベンソン先生との個人的なつながりを大事にしていたようである。彼は3流大学にあって、本当は世界的な学者になれたがならなかった隠者学者であったと、私は思っている。ベンソン先生の教え子の私が哲学の家など建てられるはずがない。カンナもノミもベンソン先生ほどシャープでないのは言うまでもない。
  ベンソン先生に対峙する存在がカーター先生である。失礼だが彼のカンナやノミは私以下の錆びが出ているのではないかと思うほどであった。しかし、カーター先生は西洋哲学史の流れを実によく理解している。それもソクラテス弁証法ではないが、現代にもこの弁証法で真理に到達できると信じている。このような先生に、「先生、カンナとノミ少しは研がれてはどうですか」と皮肉を言いたくなる。哲学を離れて、特に日米関係の問題を議論すると、ここまで頭が悪かったのかと失望する。一応われわれは哲学者であるので、タブーの問題でも議論する。真珠湾奇襲攻撃、広島長崎原爆投下、東京裁判など議論から外すわけにはいかない。議論するうちに、「この人これでよくも哲学を勉強していたな」という失望感が訪れる。アメリカの哲学教授がこの程度なら、一般アメリカ人の考えがいかに幼稚か想像できるであろう。二人の先生から影響を受けたといっても、私がアメリカに来て哲学を勉強したと胸を張れるようなものはない。あえて言えば、ベンソン先生のカンナとノミの研ぎ方を教わったぐらいなものである。
  このような、無駄ともとれる私のアメリカでの学習が、どれほど、日本サイドに貢献できるのであろうか。まず、曲がりなりにも長年アメリカで暮らしてきた、それもあまり役にもたたないような哲学を勉強してきたという、ただ単なる経験だけだろう。日本で暮らしている人は、アメリカ人と接することはごく少ないし、彼らの考えがどこから来ているかなど体感していないだろう。それに対して、私のように一応体感しているもののコメントを聞きたくなる人もいるだろう。ただそれだけのことである。聞きたくないと思う人は聞かなくても結構である。私のブログ名は「木庵先生の『独り言』」である。私の独り言に興味を示す人がいれば嬉しいし、興味がない人は読まなければよいだけである。
(2008年11月27日(サンクスギビングデーの夜、金持ちKさんのところで七面鳥の料理を食べ、少し風邪気味で、家に帰り、これを書いた)
木庵