新erasusさんへの反応#7

Erasusさんのレスが相当きた。新しいのから反応する。
1) 「erasusさんが再登場なされてから、コメントが減った」と少し冗談を込めて書いた。そのことを気づかっていただいた。結論を言うと、気を使ってもらわなくても結構だ。ブログを公表しているということは、「万機公論に決すべし」と、誰でも参入を歓迎している。参入を戸惑われる人がおられるとしても、万機であり、自然の流れである。波長の合う人とその波長を増幅させるのは私の励みであり、また真正面から反論されてこられ、それによって自分が高められるのもよしということだ。
2) 読書的静的学習は、一人家とか図書館でやれる。ところが、アメリカの法科大学院の教育のようなものは。金を払っても受けたいところである。実際の法廷でのやり取りは、論理の整合性も必要だが、臨機応変な知的反射神経対応が要求される。つまり詭弁力が要求されるのだ。この詭弁学習は、アメリカ人は子どものときからしている。家庭で、学校で、何か悪いことをしたとき、ただ頭ごなしで親が教師が叱ることはない。まず、子どもの屁理屈が通用しないように、遠巻きに論理の包囲網を張る。その包囲網を何とかして逃れる詭弁を子どもはつかう。優秀な親や優秀な教師は、子どもの詭弁の予想がたてられるので、子どもは太刀打ちできない。その敗北が、大人を乗り越えようという動機になり、大人になったときには、子どもをがんじがなめに包囲する強力な詭弁術をマスターしている。それに対して、あまり優秀でない親や教師と接した子どもは、直ぐに見破られてしまう詭弁しか使えない詭弁師になってしまう。この詭弁法はソクラテスの時代からの花形論理学であった。ソクラテスは詭弁ではなく、弁証法で真理に到達できると、詭弁者と対話した。さて、言葉、論理から真実に到達できるのであろうか。答えはある。それは論理的真実であり。それが宇宙の真理とは別の真理である。数学的な真理と同じである。論理的真実、数学的真実とは、論理、数学の中だけの世界であり、この世の世界を論じているわけではない。現実的宇宙の実相とは無関係な、頭の中だけの真理ということになる。
3) Erasus さんの父親像と私の父親の違いはErasus さんが言われるように厳格さの違いであろう。どちらが上であるとか下であるとかというよりも、どちらも血縁関係で結ばれ。好むと好まざるにかかわらず、切ることが出来ない絶対的因縁の関係である。子どもの時や、青春時代は、この関係を一番嫌悪するものと考えがちである。それが反抗、巣立ち、独立へと通っていく。特に男の子、長男には、この試練が厳しい。父親は長男に期待する。自分が歩んできた人生を考えると甘く育てられない、期待が厳しさへとなる。長男はそのようなことなど、考えることなどできない。それが軋轢となる。以前英文で一つの短編物語を読んだことがある。(日本ではこのようなタイプの作品はないだろう)、雛鳥は母鳥、父鳥に育てられている間は父鳥の強さに萎縮、従順の態度を示す。ところが親鳥になったとき、態度が急変し、母親鳥を父親鳥から奪い取ろうとする。そして完全に父鳥との決闘に勝利した後、母鳥を自分の女として処する。母鳥はそのことを何の抵抗もなく認め、もはや父鳥は、威厳も何もなくなり、ただ息子鳥の強襲に怯える惨めな老鳥に成り下がってしまったのである。これは動物の世界の話。しかし、人間の世界にも当てはまるような気がする。息子は子どもの時から父親が対抗者もしくは敵なのである。特に男らしさにおける敵なのである。子ども時代は問題なく、父親が強い。だんだん父親の身長に近づき、男気において父親を追い抜いてしまう。このときほど父親の惨めさはない。賢明な父親は、息子が子どもの時から脅迫し続ける。要するに「お前は、いつまでたっても俺を追い越すことができないのだ」と脅迫し続けるのである。それが、人間的な言葉として厳格ということになる。その厳格を持ち続けていたErasus さんの父親は立派な男だったと思う。ただ死ぬときには「いい人」になったのだろう。その意味することは、死ぬ寸前まで威厳を持ち続けていたということである。立派な男らしい人生であったと思う。
    私の父は厳格さはErasus さんの父親と質は違うが、威厳のある父であった。その威厳はどこから来ているのだろうかと、よく考えた。一つは時代だろう。明治45年(44年生まれかな)という、一応明治に息をしていたことのある父は明治男に私には映った。それも母親を6歳の時に亡くし、母親の存在を一番必要とした時代に母親の愛情を受けていない。継母に育てられ、継母と実父との間に出来た二人の子どもと比較すれば、実に冷ややかな仕打ちを受けている。このような父は暗い影のある人間なのである。そのような父との接触において、「何故動物的でもよいから、男としてもっと直接的に私を脅迫してこないのか」という奇妙な感情が私にはあった。「父親なら、強く当たってきてほしい」。どこか動物的本能が欠落した父を、すっきり受け入れられなかったのである。ねちねち母親に説教している姿が、男らしくないと感じたのである。今考えれば、そのようなことを父に要求することは酷であった。ところが子供という者は、成長する勢いがあるので、父親の弱さをついてしまったのである。父親は動物的な男気はあまりなかったが、実は父自身も知らない男らしさを具えた人間であったと思う。まず父は諦観に徹することの出来る人間であった。父は一度私に言ったことがある。「40歳まで、心から笑うことが出来なかった」と。自分の生まれの運命を呪うというより、生存していることが幸せでなかったのである。私は家族の前で父が心から笑っている姿を見たことがなかった。いつも真面目くさった顔で、「何をそんなにきばっているのか、もっとリラックスすればよいじゃないか」と、いつも思っていた。ところが、外での父は生き生きしていた。大学の時、父と父と関係する人たちと飛鳥の里を旅行することがあった。その時の父親は家庭では見せない、生き生きとした田舎の指導者に映った。バスの中で一寸した猥談を披露する父に驚くと同時に男気をみたのである。定年退職したあとも、自宅に私設公民館と称して、地域の子どもたちや大人たちに習字を教えていた父。短歌や古典を読む会を主催していた父。わが父ながらアッパレな老後の人生であった。父はよく「人生は後半で勝負する」と言っていた。つまり、40歳まで一度も幸せに感じなかった、それに社会的にも、二流人生の道を歩んだ父が、人生の後半でリベンジを行なおうとしてした。その迫力はただ脱帽するのみであった。死ぬときも立派であった。煙草をよく吸っていた父は、80を越したあたりから。心臓、肺がもはや正常に機能しなくなっていた。しかし、習字などの社会活動を休むことなく、やり続けていた。体調がよくなくいつ入院せねばならないというときに、弟がアメリカに出かけなければならなくなった。あいにく、入院しなければならなくなった。心臓や肺に加えて腎臓がおかしくなっていた。そこで、体の外に人工のバイパスのようなものを設置しなければならなくなった。そのことを看護婦が説明したのだが、父は、「あんたたちは、俺をカタワにする気か」と1時間あまり激論し、危篤状態になったという。もし、そこに弟がいれば、激論まではせず、人工のバイパスを受け入れ、少なくともその後数年以上は生き延びたと思う。しかし、このことを聞いた私は、「父らしい」と思った。それでこそ人生の後半で勝負した武士(もののふ)の最期だったと、父を誇ることが出来たのである。私は父の葬儀に参加しなかった。聞くところによると、片田舎であるというのに、近年にない多くの参列者があったという。弟は「父の交友関係の広さ、深さを父の死後はじめて知った」と、手紙で書いてきた。
 どうしたことか、いつのまにか、父のことを多く書いてしまった。
「2008年11月18日記」
つづく