新erasusさんへの反応#8

前回は父のことを大分書いた。erasusさんのトラバで興味のあるところをメモしているのだが、そのメモ用紙をもとに、erasusさんの送られた順序を無視して書いていく。書きながら急にある考えがひらめいてくるとそちらの方に向かっていくかもしれない。前回の父の記事のように。
1) 私は気が長いと書かれていたが、実は気が短い。ただ、ブログにおいては、じっくり深めながら書こうと思っているので、erasusさんには気長な人間のように見えるのだろう。自分の書いたものを、私の記録として残したいので、一応どのような記事も真剣に書いているつもりである。ブログを始めてから、私の書いたものが蓄積されると同時に、私が成長していくように思える。特にerasusさんとのやり取りは刺激的で、どれだけ私の脳の活性化に貢献してくれたか分からない。感謝している。ただあることに関して、平行線であると感じることがある。それは論理で決着できる問題ではないので、ただ、意見は意見として、受け賜るが、深追いしない。そのような私の態度が、気が長いということになるのだろうか。これがブログの良いところだ。もし、面と向かってerasusさんと議論することがあれば、そうもいかないのかもしれない。erasusさんは頭脳明晰な方なので、案外面白い議論ができるのかもしれない。ブログの向こうの相手はどのような人間か想像しながらやり取りをするのもブログの面白さかもしれない。特にerasusさんは探偵趣味がおありのようで、以前も私の本名はどうの、私の先祖はどうのと探っておられた。別に秘密にするわけではないが、色々と想像なさるのもよいのではないか。私も適当に想像している。
2) 日本の省エネ産業は世界に誇れると思う。それに、日本の産業力は凄いと思う。恐らく江戸時代の鎖国時代に、日本独自の技術、精神構造が蓄積されたように思う。この伝統力は世界に誇れると思う。
3) 「両親が私を愛してくれたという「愛」という言葉はキリスト教的だ」という指摘について考える。よく言われることに、神の子イエスは何一つ罪を犯していないのに人類の罪の贖(あがな)いのために、処刑された。この行為を神の愛とキリスト教は言う。このキリスト教の解釈によれば人間同士が愛し合う、隣人愛は、神を信じ、神の愛を基盤としたところからのみなりたつ。仏教には神の子、救済者イエスの概念がない。道元は「愛語」という言葉を使っている。この愛語という言葉は慈愛という言葉から発しているのではないか。私流に解釈すれば、只管打座(しかんただ)(只座禅に集中)という行為のなかに、また日常の釈迦の教えに則った仏行のなかに、仏そのものの姿を見る。だから正しい仏教修行者には仏から発する慈愛が自然に湧き出てくる。仏の概念はイエスのような具体的なものではなく、抽象的である。それをあえて言えば、宇宙の実相を知りえた人ということになる。宇宙の実相が自然界、また自然界の一部である人間の上にも現れている。無明なる仏になっていない人間はその実相がわからない。しかし覚者(悟った人間)(仏)にはそれが分かる。分かると、人間の生老病死という実相も自然の実相の一つの現れであり、無理なく受け入れることができる。この諦観を受け入れると自然に慈愛が内から出てくる。慈顔という言葉もある。覚者が現れるだけで、覚者の眼差し(慈顔)だけで、周囲は幸せになるという。
      私の両親が私を愛してくれたということに戻るが、両親とも覚者ではないので、その愛は、仏教的な慈愛ではなく、ただ親であるという、私のDNAを作ったという、私を自分の所有物とするようなカテゴリーの愛ではないだろうか。つまり、自分の体を大事にするように、自分の息子を自分の分身であるから大事にするという本能的な愛ではなかっただろうか。
    と分かったような分からないことを書いてしまった。そこでキリスト教的な私の解釈が正しいのかどうか、キリスト教神学者に聞いてみた。彼によると私のキリスト教的な愛の解釈は、一般的な教会で牧師が述べているレベルであるという。神の概念以前に愛はあるという。ただ、その愛が曖昧であったり、適当であるので、神学的にイエスの愛という風にして、教義化しただけだという。また神の愛なるものも突き詰めれば分からなくなるらしい。ということは、私の両親の私への愛も、DNA的な解釈より、自然に愛があったと常識的に解釈すればよいことになる。


4) ここでerasusさんからの最新のトラバが入った。タイトルが「復古派同士討ち(笑)」とある。そうだろう。北岡は「日本の集団的自衛権保持の可能性について考える安倍晋三首相の私的諮問機関「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会有識者委員(2007年4月-)、福田康夫首相の有識者会議「外交政策勉強会」委員(2007年12月-2008年9月)を務める。」とあるから政府に近い存在。特に安倍の私的諮問機関の有識者委員とあるから、erasusさん流の政治的識別をするなら、日本会議派に属するのであろう。ところが同じ日本会議派の田母神を批判しているので、「復古派同士討ち」は正しい認識であろう。erasusさんの分析とよく似ているのが、「チベット大虐殺と朝日新聞#20」の最後に引用した、「ブログ泥舟からの脱出」の記事である。

      「権力におもねる人間の常といえばそれまでですが、最近気になることは、かつては自民党の、それも保守右派的な流れに追随し、むしろ先頭に立って旗を振っていたような人物が、いつのまにか以前とは少しニュアンスの異なる発言をするようになっていることです。・・・・さらにはアパグループ(この代表は安倍元首相との関係の深い人物ですが)の懸賞論文事件についても、田母神元空幕長の歴史観を強く批判する記事を(北岡が)朝日新聞に掲載していました。
スマートといえばスマート、悪く言えば見事な変わり身という感じもしますが、こうした動きが出てくるのも、それだけ伝統的な支配体制が揺らぎつつあるということを示唆していることのような気がします。泥舟から脱げ出す人たちが増え始めたということです。」 
   見事な保守陣営の分析といえよう。田母神の論文は読んでいないので、はっきりとしたことは言えないが、論文としては素人なのだろう。erasusさんの言う「田母神の懸賞論文は論文の名に値しない。(おそらく)ネットなどの寄せ集めである」のかどうかはわからないが、恐らくそれはある程度当たっているのであろう。昨年も今年も、海上自衛隊幹部候補生の訓練のためにサンジェゴに寄航した幹部候補生と少し話し合うことができた。彼らの殆どは理工系である。田母神が理工系かどうかは分からないが、社会科学的な論文において、専門家ではないので、専門家が見れば色々の問題点が指摘できるのであろう。しかし、たとえ私が読んだとしても、恐らく違和感を感じず、読めるはずだと思う。そこには日本を守る、日本の国益を守るという愛国の情が響きあうからだろう。この愛国の情は曖昧なものであり、ある意味で危険なのであるが。それに対して、北岡の朝日の田母神論文批判は見えすぎている。愛国的情が微塵も伝わってこない。もし、田母神と違った愛国の情があるなら、北岡のような書き方をしない。もっと違った真摯な田母神批判が出来たはずである。その意味でまずは北岡批判をしたのである。この学者の時代に応じての身の変わり方は見事というより、厭うべきものがある。彼のような学者こそ、売国者と烙印を押しても良いのではないか。私は余烙印を押すのは嫌いだが。

5)4)のように、一番新鮮なトラバから反応していく。以前のものはもう、賞味期限が切れそうになってしまっているように感じるので。「2008年11月19日記」
木庵