新erasusさんへの反応#6

  以前にも書いた表現だが 「洪水の如く」erasusさんのレスが届いた。色々と私を刺激するようなコメントがあったので、それぞれについて反応する。

1) 私が「中共は世論操作のエキスパート」と書いたのに対して、「情報を公開しない国に世論操作などない」と反論なされた。なるほど、世論操作とは間違った情報を流すことによって人々をある方向に向けるという観点に立てば、中共は世論操作以前の世論さえない国ということになる。世論操作のエキスパートはイギリス、アメリカということになるのだろうか。世界をリードしていたスペインを引きずり下ろすために、スペインがアメリカ大陸で行なったインディオへの大虐殺という嘘もしくは誇張された情報を漫画、絵画などで宣伝したのはイギリス、アメリカであった。このスペイン悪玉イメージ宣伝は非常な 効果があがり、新興国イギリス、アメリカの世界戦略に役立った。ところで中共は国内世論操作はしていないが、世界への世論操作は巧みである。南京大虐殺の日本悪玉説を世界にたれ流している。それも広島、長崎原爆投下の贖罪を隠したいアメリカ人感情を知った上での国際戦略であり、ある程度の効果を上げている。世論操作に「多くの嘘と少しの真実」を広めるテクニックがあるが、マスメディアの政治報道は、殆ど嘘と私は見ている。必ずと言ってよいほど、報道機関の色がでている。特に朝日の記事は逆にとらえればよい。中共の日本の悪しきイメージを世界に広めるのもよいが、情報もなく、世論も誕生しない国民、学習しない国民、考えない国民の未来はあるのだろうか。
2) トイレの座を上げずに、小便をする若者が近頃アメリカでも多くなっている。座に触れると手が汚れると思っているのだろう。ばい菌を避けるのには賢明であるが、自分が座の上に付着させた小便水を次に使用する誰かが不快に思うであろうという、見えない相手に対する思いがない。困ったことである。
3) 「K氏人間的に面白いが、具体的なことがあまり書いていないので、彼の人間像が伝わらない」というコメントをいただいた。本当のところ、文章で伝えようがない。外観は薄汚れたいやらしい男で、先日も私の友達をレストランに連れて行ったが、彼は全くKに興味を示さなかった。ところで、私とKとの会話はあまりにも下品で、ブログで書けるような代物ではない。我々の会話の95%ほどは映倫に引っかかるようなものばかり。
4) 麻生首相が漫画で多くの知識を得ているということらしい。近頃の日本のテレビを観ると彼が言葉を知らないことを揶揄している。確かに常識的な読み方を間違えると知的能力を疑われることになるだろう。私だって麻生さん以下なので、偉そうなことは言えない。小林よしのりの漫画、読んだが、一つの表現方法としては良いのではないか。ただ教養の殆どを漫画に頼るのは困ったことだ。知り合いの家に行って、漫画ばかりが本棚に並べられていると、その人の軽薄さを感じてしまう。三文小説ばかりが本棚に並んでいるのも同様だ。全集物がずらっと並んでいるのも、全部読んだのかと疑ってしまう。各人の読書傾向でその人の教養程度が分かる。それにしても近頃の人、本を読まなくなった。読書は考える力を養う。三文小説や一般書籍だけでは深い考えは養えない。漫画ごときもの、子どもが読むもの、書物の中に入れるべきではない。風刺漫画などには、鋭さとかウイットがあり、文章表現を超えるものもあるが。
5) わが国に政治的風土はあるのだろうかという問題。勿論ある。政治的風土には、政治思想に根ざした政治運動とか、イデオロギーをイメージする必要はない。良くも悪くも、日本で起こった政治の歴史が刻みこまれたもの。それが政治的風土と呼ぶ。
6) 和辻哲郎は日本の風土を「冷めやすい台風的特徴」と述べた。だから全て古いものは顧みない風土であるというのもおかしい。日本は「過去の伝統と新しいものを上手く調合している」と書きたいところだが、それも合点できない。新しきものを求めるとは過去を否定しなければ生まれないのだろうか。坂本竜馬論でも触れたが、新しきを求めるというのは、ただ目新しいものに目がいくというだけのものでもない。司馬遼太郎の夢想坂本竜馬論に組すると、何か浅はかになる。新しきものを求めるのは人間が生きる原動力であり、古きを知ろうとするのは退化現象なのだろうか。読書は元々、古きへのベクトル、退化へのベクトルなのだろう。未来を向いている人間が本など読まない。コンピュータの操作の仕方の本を読んだり、金儲けのための経済学の本を読むことはべつにして、人間性を深めるような書物を読むことは、過去ベクトルへの方向を示している。だから読書人が新しい時代を構築するエネルギーなどないはずである。ただ言論界で活躍している評論家のような人たちは、若いときにマイナスベクトルに向かった時代があり、そこでの内省が教養の基盤になり、活躍できる才能として開花しているところがある。ところが現役で活躍している人はじっくり本など読める時間などない。ということは時代の最先端に流れている、その時代を維持するにせよ批判するにせよ、都合の良い情報だけを収集し、適当に言っているだけである。だから、テレビなどで活躍して政治評論家などは一般大衆に一番アピールする情報を集める能力があるというだけだ。そして小林よしのりではないが、漫画のように大衆にイメージとして強烈な印象を与える言葉を投げ掛けているだけなのである。つまり、現在表舞台で活躍しているような人は、大なり小なり、坂本竜馬タイプの人間であるということになる。大衆は坂本竜馬幻想を持っているので、奇抜な発想、しっかりとした学問的な基盤がなくても、訴える力のある情報だけを集め、放出している、著名(?)な評論家に踊らされているのである。じっくりと読書をし、沈思をすることを忘れた現代人は、表面的な丁々発止の世界に止まり、茶番劇の舞台で茶番劇を演じているに過ぎない。
7) 私は外国で暮らしているので、日本の現実的な渦に巻き込まれない利点がある。また上で述べた茶番劇の中に入らなくて良いという利点がある。だから、現実から遊離した、坂本竜馬夢想論をいくらでも発信できる。それも、無責任にと、思う人もいるだろう。「アメリカにいて日本の不景気の実態や日本の現実的人間像の変質を知りもしなくて、大きなことを言うな」という声が聞こえてきそうである。それは当たっている。またアメリカで生活しながら日本のことを書いているのは日本郷愁論であると言われれば、完全に否定は出来ない。「外国にいるから日本の様子がよく見えるのですよ」と、生意気なことも言いたくない。私の親族は日本で生活し、私も以前は日本の現実の生活を送っていた。それにまだ日本国籍であるので、ある程度私も日本について言える立場であると思う。私が思うより、読者の皆さんが、私のコメントに何かを感じてくれたり、共鳴してもらえればよいのであって、偉そうなことを(わりとこのごろ書いているが)言うつもりはない。
8) 近頃私へのコメント数が増えたという指摘だが、erasusさんのトラックバックが復活してからコメント数は減ってきましたよ(笑)。以前にもerasusさんが書いておられたが、我々二人の論議に第三者者の参入がほしいですね。私はコメントでもよいのですが、erasusさんは長い文章がお好きなようであるから、長い文章で、二人を批判なり、賛同する方おられませんかね。ここでそのような方を応募します。ただ誹謗だけとか、感情論だけで、我々が望むソクラテス弁証法的な議論によってお互いに高めあうという主旨に合致しない方の参入はご遠慮願いたいところです。
つづく