田母神俊雄擁護論(朝日新聞糾弾)#7

田母神俊雄擁護論(朝日新聞糾弾)#7
第一章:Venona とは何か
Venona とはソ連の国際諜報本部と西側諸国内のそのスパイとの暗号による交信を解読する米国政府の活動であった。1940 年から 1948 年までの交信が対象とされた。ソ連側は、一度しか使わない乱数表でもって暗号を使っていたので、解読が困難であったが、乱数表の数が不足して、同じものを再使用するようになって、解読が可能になってきた。1944 年の通信は49%が解読されたが、1943 年のものは15%、1942 年のものは2%しか解読できていない。

第二章:「政策スパイ」が歴史を作る

世界的な経済学者のハリー・デクスター・ホワイト(Harry Dexter White)(1892 年生まれ)が、実は「政策スパイ」であった。彼はルーズベルトの New Deal に参加している。ホワイトは、1935 年から 1938年の間にも、ソ連諜報機関に情報を与えてきた。

1941 年の初頭、スターリンは、ある時期に資本主義国が一緒になって、ソ連を攻撃するだろうと考えた。その包囲陣に切れ目を入れるための戦術として、日本の軍隊の注意を米国に向ける策を考えた。当時日本はソ連の極東地域に進出する可能性があった。在日本スパイ、ゾルゲは、日本は米国を攻撃するかもしれないが、日米の協調もありうるので、そうなると日本はソ連を攻撃するであろうと伝えた。ゾルゲは 1941 年 10 月逮捕されたが、その一ヶ月前に「日本はアメリカとイギリスを攻撃する。ソ連への危険はなくなった」とソ連の本部に報告した。その少し前に、1941 年5月、ソ連の本部はハリー・ホワイトを政策スパイとして起用した。これは雪作戦(Operation Snow)といわれ、ソ連アメリカの外交政策に影響を与えるための重大なスパイ活動であった。
ホワイトは必要があればソ連政府が日本を陥れるために作った田中義一首相の作とされる「田中メモ」を示す用意があることも知っていた。ホワイトに直接指示を与えたのはパブロフというロシア人で、ホワイトに米国の外交政策に多大な影響を与えるよう指令した。特に以下の二点を強調した。?日本は侵略から手を引き、中国と満州から軍隊を引き上げること、?日本は大多数の兵器を米国に売却すること。これらの指令はメモとして証拠を残すことを避けるために、記憶するように指示されている。ソ連のスパイは、日本がアメリカと戦闘状態に入らなければ、ソ連と戦争することになることを認識していた。スターリンがもっとも恐れたのは、ドイツと戦闘状態にあるのに、日本と戦争をすることであった。ホワイトはモーゲンソウ長官に上の二点をアメリカの重大政策決定として提出した。長官は、そのことを、ルーズベルト大統領とコーデル・ハル国務長官に提出した。ハル長官はホワイトの意向を、1941 年 11 月 26日の日本への最後通牒盛り込んだ。その結果が日本海軍の真珠湾攻撃につながり。雪作戦が成功したことになる。

ホワイトは戦後のモーゲンソウ計画にも関与している。モーゲンソウ計画とは、1944 年 8 月 7 日にイギリス南部で米軍司令官アイゼンハワーとモーゲンソウが戦後ドイツの占領政策について協議し、ドイツが戦後早く回復しないように、ドイツを小さな州に分け、工業生産を中止し、小規模農業経済にするべきだと主張であり、それは採用された。

11945 年4月のサンフランシスコの国際連合会議には、アメリカ代表の公式顧問として参加している、後に、IMF の米国代表理事の役を果たし。その間、彼は秘密情報をソ連に伝えていた。

Harry Dexter White は、共産主義への支持のために、報酬を期待などしなかった。ただソ連共産党のために献身的に貢献した。1948 年に彼は下院の非米活動委員会に召喚されたが、共産主義者であることも、秘密情報をソ連に提供したことも否定した。しかし、Venona の情報によれば、彼は第二次大戦中、一貫してソ連諜報機関に情報を提供し続けていたのである。彼は非米活動委員会で証言しで間もなく、New Hampshire の自宅で心臓麻痺で倒れ、死亡した。1948 年 8 月16日 であった。

第三章:組織を作ること

ハリー・デクスター・ホワイトのような人が自国の利益を犠牲にしても、Communist International (Comintern) に奉仕しようとする人が多数いた。

コミンテルン (Comintern) は 1920 年に設立され、ソ連のために必要な機密情報の収集を開始した。コミンテルンは、他の国の共産党を認めるに当たって、21の厳しい条件をつけた。共産党員は、自国の軍隊を支援するのではなく、ソ連の軍隊を支援することもそのひとつである。そして、アメリカの共産党もその例外ではなかったのである。

第四章:チェインバーのスパイ集団

戦後間もない頃に発表されたソ連の諜報活動は主に、ウィッタk−・チェインバーとエリザベス・ベントリーからの情報によるものであった。Venona の書類はそれが事実であったことを示している。


第六章から第八章: 原子力スパイ

トルーマン大統領は、1945 年の4月に大統領職について間もなく、原始爆弾のことについて知らされた。しかし、スターリンは、1941 年にこのことは知っていた。またスターリンは、二人のスパイから、テストの結果を知らされていた

この二人とは、Klaus Fuchs と Theodore Hall であることが、Venona の書類から確認できる。前者は原爆チームに参加した英国チームの一員であり、後者はLos Alamos で雇われた20歳未満の雇用人であった。

ルーズベルトニューヨーク州の知事であった当時、生活保護局の担当をしていたハリー・ホプキンスと知り合い、友人としてまた顧問として彼と近い関係になった。ホプキンスは 1943 年に大量のウラニウムソ連に送ろうとしたことがある。その時、彼がソ連のスパイであることを、誰も知らなかった。ホプキンスはルーズベルトのアドバイザーとして、戦後もソ連に有利な情報をスターリンに送っている、その一つが、「米国はポーランドソ連に友好的な国になることを望んでおり、事実ソ連に接する国はすべてソ連に友好的な国になるのが良い」と言う情報をスターリンに送り。その結果として、東ヨーロッパには、ソ連の傀儡政権が出現したのである。

ローゼンバーグ夫妻の原子爆弾スパイ事件はよく知られている。Venona の書類は、彼らがスパイであったことを証明している。ローゼンバーグの機密情報の伝達によって、ソ連の原爆開発が数年早まり、そのために、1949 年 8月 29日 にソ連は原爆の実験をすることが出来、それが自信となって、北朝鮮に 1950 年 5 月には南朝鮮に侵入することを指示し、6月25日に攻撃が開始されたとしている。

原爆プロジェクトの指揮をした二人の科学者の一人であるオッペンハイマーは、Venona の書類には現れないが、資料から、オッペンハイマーは、 1942 年にフエルミがシカゴで行なった核反応の情報をソ連に提供したとされている。
つづく