田母神俊雄擁護論(朝日新聞糾弾)チベット大虐殺と朝日新聞のつづき#1

田母神俊雄擁護論(朝日新聞糾弾)#1
   その疑問が確信に変わったのは、4月26日の狂乱の長野聖火リレーを、この目で直接見たときだ。5千人以上にのぼる中共の留学生が大型バスで続々と長野に乗り込み、街に五星紅旗がはためき、高らかに中国国歌がこだまする不気味な光景は、まるで人民解放軍の侵略と都市占領を想像させるものであった。その光景を見た岩田は、これこそ明日の日本の姿であると直感した。中国人の横柄な態度、常軌を逸した狂乱ぶり、そして日本人に対する暴行など、長野の現場では驚くべき状況が広がっていた。ところが、これらの事実をマスコミが報道することはなく、長野の聖火リレーは若干の「妨害」はあったが成功裏に終わったということにされてしまった。しかし、もしかしたら、後に歴史を振り返ってみたとき、あの長野の聖火リレー中共の日本侵略の嚆矢(こうし)であったと呼ばれるようになるのではないかと岩田は危惧した。そして事実が事実として報道されないマスコミの異常性を改めて恐怖を覚えた。マスコミ、特に朝日新聞チベット問題に関していかなる報道を送ってきたのか、いかなる世論を形成するために論陣を張ってきたのか、冷静に分析する必要を感じた。
  しかし、この作業は困難を極めた。朝日新聞におけるチベット関係の報道記事は実におよそ6千件程度に登った。その一つ一つの記事を詳しく調査し、資料を収集していくなかで、最終的に資料ファイルの数は百を超えるまでに到達した。このような精査の中で、朝日の驚くべき偏向報道の実態が明らかとなった。
  まず、朝日はチベット大虐殺を「解放」と呼んでいたという事実に驚愕した。またダライ・ラマに対するいわれなき誹謗中傷も驚いた。そして常にチベットに対して冷淡は態度を取り、常に中共よりのプロパガンダを繰り返すその実情に改めて驚嘆した。しかも、今日にいたってはこの朝日が「チベットの人権を守れ」と喚いている。なんと恥知らずだと怒りに震えざるを得ない。「厚顔無恥」とは、朝日のことを指す四字熟語だと言い放っている。
  さらに言えば、その朝日新聞のことを「インテリが読む新聞だ」、「高所得者が読む新聞だ」と言ってもてはやしてきた、いわゆる進歩的文化人も同罪だ。本書はそうやって日本をミスリードし続けてきた人々に対する宣戦布告でもあると、怒り心頭に走っている。
< 著者岩田温という人物、よくここまで実証的な研究をしたものだ。その実証的な研究をしようと思ったきっかけが、長野の聖火リレー取材であったという。私もyou tubeで長野の様子を見たが、岩田氏が述べている以上であった。多くの中共の学生が日本で勉強するのはよいが、これはひどすぎる。きっと過激な振る舞いをしないと中国人仲間から非難されるのだろう。留学生といっても、中共政府の目が光っているから。
  私はアメリカで生活していることを、読者の皆さんはご承知のはずだ。私の知っている限りアメリカで日本の日刊新聞が購入できるのは、日本経済新聞朝日新聞だけである。ロスの場合、羅府新報というローカル日系新聞があるが、これは毎日と提携し、毎日の記事が多く入っているようだ。以前は讀賣も購読できたが、今はアメリカから撤退している。私はどの新聞もとっていないので、これらの新聞がどのような記事を書いているかよくわからない。ただ、先日某日系ホテルで講演会があり、その時に朝日新聞がロビーにあったので、どれほど朝日が偏向記事を書いているかチックしてみた。2008年11月13日付けの「私の視点」という記事だ。ここでは、今日本を賑わしている、田母神俊雄氏更迭問題について3名の学者、評論家、元陸将からなる田母神批判である。とても興味のある観点であるので、これから少しそれぞれの記事について分析する。
まず北岡伸一東京大学教授(日本政治外交史専門)の記事である。まず
ウィキペディアを覗いてみた。

きたおか しんいち
北岡 伸一
生年月日 1948年4月20日(60歳)

出生地 奈良県

ジャンル 政治学

主な作品
日本陸軍と大陸政策』
清沢洌――日米関係への洞察』
自民党――政権党の38年』
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北岡 伸一(きたおか しんいち、1948年4月20日 - )は、日本の政治学者、東京大学大学院法学政治学研究科教授、元日本政府国連代表部大使。専門は、日本政治外交史。
[編集] 略歴
• 1971年 東京大学法学部卒業。
• 1976年 東京大学大学院法学政治学研究科博士課程修了(法学博士)、立教大学法学部専任講師に就任。
• 1978年 立教大学法学部助教授。
• 1981年 プリンストン大学客員研究員(-1983年)
• 1985年 立教大学法学部教授。
• 1997年 東京大学法学部教授。
• 2004年 国際連合日本政府代表部次席代表・特命全権大使(-2006年)
• 2006年 東京大学法学部教授に復職。
[編集] 人物
奈良県吉野郡吉野町生まれ。東大寺学園中学校・高等学校を経て東京大学法学部・同大学院法学政治学研究科博士課程修了。法学博士。立教大学法学部教授などを経て1997年から現職。1987年、『清沢洌』でサントリー学芸賞を受賞。
日本陸軍の政策研究からスタートし、1980年代終わりから盛んに現代政治に関する評論を行う。日本がいかにすれば国際平和への積極的貢献や政権交代などが可能な「普通の国」になれるかを歴史的な視点から問うている。2004年4月から2006年9月まで日本政府国連代表部次席大使としてニューヨークに赴任。
この他にも政府との関わり合いは強く、長期的な外交戦略検討のために設置された小泉純一郎首相の私的諮問機関「対外関係タスクフォース」委員(2001年9月-2002年11月)、外務省改革の一環として、過去の外交政策政策評価を行なうため設置された「外交政策評価パネル」座長(2002年8月-2003年8月)、日本版NSC設置検討のために設置された「国家安全保障に関する官邸機能強化会議」委員(2006年11月-2007年2月)を歴任した。
つづく