チベット大虐殺と朝日新聞#16 

チベット大虐殺と朝日新聞#16
 岩田は長野駅の睨み合いを取材した後、「聖火リレー」の到着点である若里公園に向かった。ここでも、日本とは思えない光景が広がっていた。まず、日本人並びにチベット国旗を持った全ての人々は、正規の道路を歩くことを許されず、まるで獣道のような道を歩かされ、講演の外の小高い丘に集められた。「フリーチベット」あるいは「中共は侵略をやめろ」との声がこだましていた。この公園でも集結した中国人は横暴を極めた。国旗を振り回し、国歌を馬鹿の一つ覚えのように歌い(叫び?)続ける彼らは凶暴そのものだった。岩田は彼の知人の話を紹介している。
 「聖火リレーを守る」と称して中国人たちが、若里公園では人間の鎖のようなものを作っていた。まるで日本人は通行禁止だと言わんばかりの雰囲気であった。知人はトイレに行こうと、近くの警察官にトイレの場所を尋ねた。すると警察官は、中国人の作った人間の鎖の向こうと、かなり遠く離れた場所の2箇所のトイレを教えてくれた。知人は近くのトイレに行こうと、中国人に道をあけてもらうよう頼み込んだ。ところが、中国人は「聖火リレーを守る」「ダメだ」の一点張りで全く通そうとしない。押し問答をしていると、周りの中国人たちが集まり、「出てけ」、「出てけ」と声を合わせていっせいにはやしたてた。近くの警察官に訴えても、全く聞く耳を持たず、逆にあなたの存在が迷惑だ、と言わんばかりの表情でこちらを眺めていたという。日本において、日本人に対して「出てけ」と命ずる中国人。被害に遭う日本人を見殺しにする警察官。いつから、日本は中共の植民地になってしまったのか。
<長野の中国人の様子を少し長いとは思ったが引用したのは、中国人の実態を読者の方に知らしめるためであった。我々日本人は根本的に中国人のことを理解していない。日中戦争で悪いことをしたのは日本人だけで、善良なる中国人を辱め虐殺していったと、戦後育った日本人の頭に刷り込まれている。戦前の哲学者和辻哲郎の「風土」の中で、シナのことを以下のように述べている。少し長いが 引用する。>
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シナ
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その風土
モンスーン地域を広義に解すればシナの大陸をも含める事ができる。そのシナの風土を代表的に示しているのは黄河揚子江とであろうが、すくなくとも揚子江はモンスーンの大陸的具象化だといってよいであろう。揚子江とその平野との姿がわれわれに与える直接の印象は、実は大陸の名にふさわしい偉大さではなくして、ただ単調と空漠とである。
揚子江黄河
その揚子江地方は水郷であり、黄河地方は乾燥地である。また揚子江の平野は米作地であるが、黄河の平野は麦作地である。これらの特徴は、黄河が砂漠から出てくる川であるという一語によって言い尽くせるであろう。すなわち黄河とは砂漠とモンスーンとを媒介する川なのである。こう考えるとシナの人間は砂漠的なるものと無縁ではない。彼らに著しく意志の緊張があり、したがってその忍従性の奥に戦闘的なるものを潜めている事は、モンスーン的性格と砂漠的性格との結合を語るものであろう。しかし砂漠的人間におけるごとき絶対服従の態度はシナの人間には存在しないのである。シナ人の「非服従的性格」と呼ばれるものがここに関連する。シナ人は血縁的もしくは地縁的団体の拘束以外にはいかなる拘束をも許さない人間である。
服従的な忍従
この非服従的な忍従は彼らの無感動性と密接に連絡する。しかしこのようなシナ人が無感動的であるという事は、シナ人が感情生活を持たないという事ではない。シナ人の感情生活の様態が無感動的であるというのである。空漠たる単調さにおいて己を見出している人間は、変化を求めて感じ動く事を必要としない。この点に於いては、きわめて変化に富む質的多様性に於いておのれを見出している日本人は、シナ人の相反の極にあると言ってもよい。(ウイッキペディア による)
<重要な語句として、以下のものを挙げる。
「単調と空漠」、「シナの人間は砂漠的なるものと無縁ではない。彼らに著しく意志の緊張があり、したがってその忍従性の奥に戦闘的なるものを潜めている」、  「日本人は、シナ人の相反の極にあると言ってもよい」。和辻のシナ人の見方からすれば、長野での中国人の行為は別に驚くところではない。ごく自然なシナ人の行動パターンを、日本の土地で演じていただけである。実はシナの単調と空漠の歴史の激動の中で生き延びてきた中国人は我々日本人のようなお坊ちゃんではない。嘘はつくし、即座に自分の都合のよいように演じることが出来る。時代の権力者、国家に服従、忠誠しているようなふりをしているだけである。ただ中国人の血縁的、地縁の関係はヤクザ以上の結束した関係である。彼たちは本質的に国家など信じていないのである。>
あとがき
  岩田温氏の専門は哲学、とりわけ政治哲学である。エドマンド・バーク保守主義、レオ。シュトラウスの政治哲学、昭和初期における日本政治思想などを研究している。その彼が言う。「戦後日本では戦前の教育の反発からか、個人という側面ばかりが強調され、共同体の中に生きているという感覚が麻痺してしまっている。本書は日本という共同体に生きている岩田が、この日本そのものが危機にあることを憂いて書いた。はっきり言えば、今日のチベットは明日の日本ではないかという危機感を抱いたがゆえに、岩田は筆をとった。岩田自身が初めてチベットについて知ったのは「セブンイヤーズ・イン・チベット」という映画を高校生の頃に見たことがきっかけであった。慎ましやかな生活を送っていたチベット人たちの土地にいきなり乱入し、悪虐の限りを尽くす人民解放軍。この姿を見て烈しい義憤に燃えた。それ以来、岩田はチベットの問題を岩田のなかで大きな位置を占めるようになった。ダライ・ラマの自伝亡命、チベット人の体験記などを、専門家趣味ではなく、一読書人として読んできた。そのような中で、2008年3月10日を迎えた。中共側から見れば「暴動」、チベット側から見れば「蜂起」であった。これに対して世界中の人々が注目した。岩田もその一人であった。日本でも盛んにメディアが報道し、あの中共べったりの朝日新聞でさえ、あたかも中立を装うかのように報道していた。この朝日の報道を見ていたときに、岩田はふと一つ疑問が浮かんできた。果たして朝日は今までチベット問題に対して、中立的な報道をしてきたか、と。しかし、それなら、何故に日本人は50年間も中共チベット侵略を許してきたかという問いに直面した。事実を知らされながら、中共の侵略を放置していたとあっては、日本人の名誉が傷つく。日本人がそんな事態を黙認するはずがない。新聞のミスリードによって、日本国民はチベットにおける実態を知らされていなかったのではないかと思った。
つづく