チベット大虐殺と朝日新聞#15 

チベット大虐殺と朝日新聞#15
聖火リレー」の開始時間が近づいてきた。著者岩田温は「聖火」なる呼称に違和感を覚えている。共産主義国家に「神聖」なる概念が存在するのかという疑念である。そもそも「神聖」なる概念は、何かの宗教的担保の下に成立する概念である。共産主義は「宗教はアヘンだ」と、宗教そのものを否定したのだから、「聖火」などという言葉が成立するはずがない。チベット大虐殺を実行し、日本に核弾頭を向けながら、堂々と「平和の祭典」たるオリンピックを開催するなど、茶番以外のなにものでもない。
   沸々(ふつふつ)と怒りが湧き上がってきたとき、「聖火リレー」は開始された。日本人が、入場を禁じられた、中国人留学生に埋め尽くされた道を、野球日本代表監督星野仙一が、警官に取り囲まれ、護送されながら走ってきた。大小の五星紅旗が入り乱れ、観衆(中国人のみ)の興奮が絶頂に高まった。岩田はココで絶望に似た感情に襲われた。「身を挺して、中共に抗議する人はいないのか。当日になって突然辞退するという骨のある人物はいないのか。星野仙一中共に物言えぬのか。日本人としての魂を売り渡すかのような、この星野なる男から二度と『筋を通す』だの『日本人として』だのと言った言葉を聴きたくない」。聖火リレーの前に「走るからといって中国支持ではないし、走らないからといってチベット支持ではない」などと寝ぼけた発言をしているが、噴飯ものである。「チベットにおける中共の圧制に対する抗議のために辞退します」旗幟(きし)を鮮明にすれば良いだけではないか。事実、2004年のノーベル平和賞受賞者で、日本で「もったいない」を流行させたケニア環境保護活動家のワンガリ・マータイは「中国は抗議の耳を傾けるべきだ」と主張して、「聖火リレー」を辞退している。「スポーツと政治を区別するな」ど、一見もっともらしいことを言うが、スポーツを最大限に政治利用しているのが中共なのだから、とんだお笑い草である。
<岩田さん、少し興奮されているな。実際に聖火リレーの現場を取材され、長野が中共に占領され、少しは骨のあると思っていた男気のある星野が恥さらしの聖火ランナーで走ったというから、興奮するなと言っても無理であることはわかる。しかし、星野は野球に命を賭けてきた男、政治認識の世界は一般日本人レベルと考えればよい。私は長島茂雄が大好きだが、彼が選手時代「社会主義国家では野球が出来るのだろうか」というような発言をしたことがあった。これは政治音痴の長島を笑う材料によく使われるが、まんざら音痴の発言ともおもえない。社会主義国家では自由がなく、所謂アメリカのメジャーリーグだの、日本のプロ野球のようなものは存在できない。全て国家が統制したスポーツを国家の権威高揚のためのスポーツは存在しても、個人個人のプレーヤーが実力と努力によって、金を儲けさせるというようなものはない。だから長島の発言は長島的勘が政治の世界を直感的に正しく解釈していたのである。説明補足が必要であるが。しかし、もし日本の大衆レベルの政治意識がもっと高ければ、星野は聖火リレーに参加しなかったであろうし、したとしても恥をかくだろう。彼が本当に恥をかいた、そして彼の男気に日本人が疑問を持ち出したのは、オリンピックでの無残な敗北であった。スポーツの世界は酷である。勝つか負けるかによって評価が決まる。選手を特別扱いにして、一般オリンピック選手と同じように選手村で宿泊させずに、ホテルに滞在を許した星野の甘っちょろい考えが今回のオリンピックの敗北であると言われても仕方がない。その甘っちょろい考えが実は聖火リレーでノホーンと走ったところから始まっている。せいぜい、日本全体のバッシングを受けて、今後大きなことだけは言わずに、野球界で細々と生き延びてもらいたいものだ。男気とは一度失敗すると、取り返しがつかないことになるのだ。ヤクザの世界でも武士道の世界でも、ギリギリのところで生きている。それが勝負の世界なのですよ。星野さん。>
  「スポーツの選手ばかりを責めるだけでは公平さに欠けるので、もう一人批判しておこう」と、岩田は「お笑いタレント」の看板を掲げる萩本欣一に批判の目を向ける。萩本が走行中に、抗議(「妨害」ではなく「抗議」という言葉の方が正確だ)を受けた後に、「笑顔とか幸せを考えていたけど、その空気に浸ることなく終わった」「欣ちゃんのところで(妨害行為を)やんないでよ。ハッピーで終わりたいと思っていたのに」などと発言し、あげく、自身で聖火リレーをやり直すと宣言し、年甲斐もなく能天気にはしゃぎながら街を走り回った。善人を気取りたい単なる無知で哀れな老人なのか、確信犯なのか知らないが、仮に無知であったとしても、不謹慎な態度だといってよい。チベットの大虐殺に思いをいだしてもみよ。チベットで罪なき人々が殺害されているときに、「笑顔」とか「幸せを考えて」など許されないだろう。仮にチベット人が殺されているのを知りながら、あいは知っているがゆえに「笑顔とか幸せ」を考えるならば、常軌を逸した精神の持ち主と言わねばなるまい。

<岩田さん。欣チャンはただ単なる馬鹿です。馬鹿につける薬はありません。貴方のようなインテリがいくら興奮して説教しても、馬耳東風です。星野批判ぐらいにしておきなさい。>

  星野が走るところを見届けた後に、長野駅に向かった。市内の至るところで「五星紅旗」と「雪山獅子旗」(チベット国旗)が入り乱れていた。ところどころでは、小競り合いが起こっていた。「フリーチベット」「チベットに平和を」と叫ぶ日本人に対して、中国人が猛然とくってかかっている。ここでも彼らは巧妙だ。誰もマスコミの人間がいないと見ると、日本人につかみかかり、殴り飛ばす。ところが、マスコミが来たと見ると、つかみかかっていた当人が「暴力はよくないよ」「平和的に話し合おうよ」などと平然と言ってのける。すさまじい神経の持ち主である。嘘をつくことを恥じないその様は、まさに日本人離れしている。長野駅では、中共五星紅旗を持つ集団とチベット雪山獅子旗を持つ集団が対峙し、まるで関が原の合戦を思わせた。両者のシュプレヒコール合戦が続いた。興奮した中国人たちは、モニュメントの上によじ登り、まるで占領軍であるかのごとき態度で旗を振り回す。一般の長野市民たちは、彼らの凶暴な姿に脅えていた。以下、長野市内で出会った長野市民の声である。
「今日は本当にびっくりした。まさか中国人があんなにたくさん旗を持ってくるとは思わなかった。何かされないうちに帰ります」(60代男性)
「怖いです。オリンピックなので、楽しみにしていたけど、リレーも何も見られないし・・・」(40代女性)
「子どもが怯えてしまって・・・私も怖いです」(20代女性)
「何で警察は中国人に何も言わないんだ。俺たちは税金を払ってんのに何にもしてくれないじゃないか」(60代男性)

  確かに、最後の男性が主張するように、警官は中国人に対して及び腰であった。時は少しさかのぼり、星野が走る前の頃、岩田は信州大学の前にいた。あまりの多くの中国人留学生、巨大な旗のために、うまく写真が撮れなかった。そこで、信州大学の壁によじ登った。その時警察官が駆けつけきた。
「危険ですから登らないで下さい」
「いや、他にも中国人がいっぱい登っているじゃないですか」
「もちろん、そちらにも注意しますから」
  そこまで言うなら、と降りたのが間違いだった。その警察官は一向に壁の上の中国人に注意しない。業を煮やして、岩田は注意するように求めると、しぶしぶといった表情で、中国人に向かって「降りてもらえませんか」と聞いた。ところが、さすがの中国人。一枚上手である。日本語が分からないふりをするのである。この中国人、ほんの数十分前に、中共によるチベット解放と、ダライ・ラマの残虐な統治を日本語で喚き立てていた張本人である。この空とぼける中国人を前に、警察官はすごすごと退散した。また、信州大学前には、チベット国旗を持った日本人は入ることを拒絶された。岩田自身にも、警察官が「チベット国旗を持ってませんよね」と確認してきた。「持っていませんが」と言うと、「ならいいです」と答え、それ以上は話さなかった。ここで了解したのだが、要するに
警察官は、日本人を取り締まるために警備していたのだ。信州大学の前が赤一色、「一つの中国」(彼らのスローガン)になっていたのは、日本の警察官の取り計らいなのである。何とも残念・無念きわまるわが国の現状である。

つづく
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