チベット大虐殺と朝日新聞#9

チベット大虐殺と朝日新聞#9
  自らを中華と称し、その他を東夷、西戒(せいじゅう)、南蛮、北荻(荻−草偏)(ほくてき)と決め付け、それらを中華化する義務があると考える思想が「中華思想」である。王か(木偏+可)という神戸大学の教授を務める中国人は、中華と四夷【(東夷、西戒(せいじゅう)、南蛮、北狄(ほくてき))の区別が、生来的な差ではなく、文化様式の差であったことを指摘する。そして、東夷、西戒(せいじゅう)、南蛮、北狄といった言葉が、決して差別を含んだ語ではなかったと主張している。つまり、「華」という文字は本来「草木が茂る」という意味で、農耕の象徴として「華」という文字が使われたという。それに対して、例えば「北狄」と言う文字は、人間と犬が共に暮らすことを意味する。つまり、遊牧民の象徴として、「北狄)」の文字が使われるという。「中華」と「四夷」の区別は単に生活様式の差をあらわしているだけで、軽蔑や序列はなかったというのだ。そして、これは時を経て、後には文化様式の中でも、とりわけ「礼」のシステムの有無が「中華」と「四夷」の区別となったという。王か(木偏+可)は「論語」と「じゅん(旬+草冠)子」の一節を引きながら「礼」の有無こそが「中華」と四夷の区別だと説いている。<ここでは論語の現代語訳だけを挙げる>
 「老先生は、〔世の中が乱れを嘆かれて〕いっそのこと東方の夷の地にでも行こうかとおもわれた。そこで、ある人がこう言った。『東夷は野卑なところですぞ。どうされますか』と、すると老先生はこうおっしゃった。『教養人がそこに住むならば、〔周囲の人を感化するだろうから〕どうして野卑なことがあるだろうか』と。
  「論語」においても「じゅん(旬+草冠)子」においても、四夷に存在する人間は野蛮であるという前提から話が成り立っている。つまり「論語」では、野蛮人の住む場所であっても、私(孔子)のように優れた文明人が赴けば、その野蛮な土地を文明化できると言っている。
<回りくどい議論は抜きにして、四夷は野蛮人であり、チベット人も野蛮人であるから、礼節を知る漢民族が、正しく指導してやるというのが中華思想である。日本民族に対しても同じ見方であるのはいうまでもない。
 ところで王か(木偏+可)先生、とてつもない議論を提示されておられる。>

「中国がチベットや「東トルキスタン」の独立を絶対に認めない理由については、中国国外の研究者はドミノ理論でそれを解釈する傾向がある。つまりどこか一つの地域の独立を認めれば、他の地域や民族にもかならず同じような動きが起こる。これは、基本的に近代国家と領土の関係という政治学的考えから来たものである。しかし中国国民にとって、周辺の民族が中国に見切りをつけるということは、支配者の資質が問われる問題でもあり、他民族国家体制を維持できるかどうか、つまり、『中国』が成り立つかどうかという根本的な問題にもかかわっている。たとえば、1945年の末、外モンゴルの実質的独立を認めた中華民国政府の指導者蒋介石は、まもなく大陸における支配力を失った。その教訓で、台湾に逃れた彼は、生涯外モンゴルの独立を承認せず、台湾で発行した『中華民国地図』では外モンゴルは中国領のままにしたのである。(王か(木偏+可)【他民族国家・中国】岩波新書212〜213頁)
  
  ここで、孫文の「中華思想」を取り上げる。孫文中共からも台湾からも国父と仰がれていることはよく知られている。ところが、彼の思想に潜む侵略主義的な中華思想は、意外と知られていない。まず確認しなければならないのは、孫文中華思想は、辛亥革命の前後で大きく変化していることである。
  20世紀に最も人々の心を捉えたのは、ナショナリズムであった。米国のウイルソン大統領の「民族自決論」が有名だが、これは、彼固有の思想というより、むしろ、時代の潮流であった。西洋かぶれであった孫文は、この民族自決の理想に心酔していたのである。当時の中国は清王朝による支配が続いていて、少数の満州族が大多数の漢民族を支配していた。例えば、洪秀全の率いる太平天国の乱の際に掲げられたスローガンは「滅満興漢」であった。1905年、孫文が設立した中国同盟会の入会宣誓に、「満州族の駆除、中華の回復、民国樹立、地権の平均配分」という語句がある。後に「三民主義」と呼ばれるものの一つで1924年に講じられた「民族主義」の第一講で、孫文は次のように述べている。
 「・・・中国民族の総数は4億、そのなかには、蒙古人が数百万、満州人が百数万、チベット人が数百万、回教徒のトルコ人が百数十万まじっているだけ、外来民族の総数は一千万にすぎず、すべて漢人だといえます。同じ血統、おなじ言語文化、おなじ宗教、同じ習俗習慣を持つ完全な一つの民族なのであります。」(孫文孫文選集一』社会思想社、25頁)
  辛亥革命が成功し、中華民国が建国されると、漢民族単一国家を唱えた場合、チベット等の独立を許すことに繋がると孫文は気づき、彼は『五族共和』という理念を掲げることになる。五族とは、漢民族満州族モンゴル族ウイグル族チベット族の五族を指している。『五族共和』とはわれわれがイメージする平和的な概念ではなく、五族を漢民族に同化してしまえという主張なのである。孫文中華民国の臨時大統領就任を世界に向けて明らかにした「臨時大統領就任演説」で、彼は次のように指摘している。
 「国家の本源は人民にある。漢、満、蒙、回、蔵の諸地を合して一国となし、漢、満、蒙、回、蔵の諸族を合して一体となす。これを民族の統一という。」(孫文「臨時大統領就任宣言」『孫文選集第3巻』社会思想社所収、46頁)

  さらに、孫文は後になって、この『五族共和』という言葉が不適切だと主張しだす。
 「われわれが今日中国の民族主義を講じるには、五族の民族主義というような、漠然とした話をするわけにはいかない。当然ながら漢族の民族主義についての話をするべきである。・・・・私が現在考えている『民族調和』の方法は、漢族を中心として満州、モンゴル、回、チベットの4族を、我々に同化させることである。」(王か(木偏+可)「20世紀中国の国家建設と『民族』」東京大学出版会、99頁より。孫文の言葉)
 「一部の人は『清朝が崩壊したのだから、民族主義はもう必要ない』と言っているが、これは非常に間違った考えである。いま『五族協和』というが、この五族という言葉は適当ではない。われわれ国内では、なぜ五族だけにとどめられるのか。われわれ中国のあらゆる民族を融合し、ひとつの中華民族を作るべきであると、私は言いたい。・・・中華民国を文明的な民族に仕上げてはじめて、民族主義が完成することになる。(王か(木偏+可)前掲書、97頁)
   諸民族を束ねて『中華民族』とする思想こそが孫文中華思想の真髄なのである。例えば『中華民族』の一構成民族であるチベットが独立している状態とは、中華民族が分断されている状態に他ならない。それゆえに民族の分断状態を『回復』するためにこそ『統一』(=侵略)が必要となるわけである。そして中華民族内部では、決して諸民族が平等に謳われるのではなく、漢民族が野蛮な他民族を支配し、同化させることが目的とされる。彼らを文明化(中華化、実際には漢民族化)しようとするのである。すなわち中華思想が存在する限り、彼らが『中華民族』と見なした他民族に対する侵略は『中華民族統一』という大義名分の下で正当化されることになるのだ。すなわち他民族への侵略を正当化する帝国主義イデオロギーこそが中華思想に他ならないのである。
以上見てきたように、侵略主義的イデオロギーとしての中華思想は確認できたはずである。それでは、中華思想の究極的な目的は何なのか、何を中華思想の理想として掲げているのかを検討してみる。再び孫文の言葉を引用する。
  「われわれのいう三民主義とは、人民の、人民による、人民のためのもの、ということであります。この人民の、人民による、人民のための、ということの意味は、国家を人民の共有、政治は人民の共同管理、利益は人民の共同享受、ということであります。このような見解にたてば、人民は国家にたいして共産するだけではなく、すべてのものを共にすることができます。人民が国家にたいし、すべてのものを共にできるようになれば、そのときこそ民生主義の目的が真に達成されたことになり、これこそ、孔子の望んだ大同世界なのであります。」(孫文民生主義」『孫文選集第3巻』329頁)
つづく