チベット大虐殺と朝日新聞#2

チベット大虐殺と朝日新聞#2
    中共チベット侵略を「革命」と表現していること自体が異常なことである。GHQが目を光らせていたときのような、かつての冷静で中立的な記述はもはやどこにも見当たらない。今すぐにでも、「日本でも革命が起れ!」といわんばかりの恐ろしい文言が続いている。この1953年の記事から今日に至るまで、朝日新聞チベット報道は一貫して親中共的姿勢を貫くことになる。
   その後も、朝日はダライ・ラマチベット人民を誹謗する記事と中共チベット製作がいかに偉大かを讃える二種類の記事を載せ続ける。

 「【中共少数民族問題】自治区制度が少数民族の経済、文化の発展に役立っていることは、例えは64万平方キロ、250余万の人口を持つうちモンゴル自治区の次のような報告からもうかがえる。
(1)人民政府設立以来、これまで一頭の家畜ももたなかった遊牧民が、一人平均64頭をもつようになった。
(2)これまで顧みられなかた農林業が急速に発展し、現在農耕に従事している者は、人口の80%をしめ、内モンゴル林区の立木蓄積量は十億立法メートルに達している。
(3)小学校は戦前の4倍、3千7百にふえ、以前は無かった大学が3校新設された。モンゴル文字の書籍出版はすでに270万部にのぼっている。
   一方こうした寄与の反面、自治区制度が破壊使用としえいる伝統をもぐって少数民族の間に反感が高まっているという情報も伝えられていることは注目される。(1964年2月12日)

  自治区制度が破壊しようとしている伝統」と述べている時点で、朝日は中共の支配体制が少数民族の伝統を破壊しようとしていることを充分溶解しえいるのである。
  「【中共治下のチベット 盗賊の横行止む】
チベットは過去4年間中共によって’統治されてきたおかげで、片田舎にさえ盗賊が横行するというようなことはなくなったが、農民の経済状態などについては、あまり改善の後はみられていないようだ、中共の統治者たちチベット国内の街道の無法状態をなくすためひところ数千名の軍隊を使って巡礼などの通る街道をうろつく’盗賊狩りをやった。この狩り出しで捕らえられた盗賊どものある者は射殺されたが、ある者はチベット特有の刑罰の方法で手を切り落とされたり、にたった油をかけられたり、焼け火バシで目蔵にされたり、あるいはむち打たれたり、土の獄舎に放り込まれたりした。この情容赦も無い処罰方法に盗賊仲間はすっかりちじみ上がり結局彼らは捕まらない中に百姓や羊飼いに身を変えて法を守るようになった。」(1954年8月24日)

  チベット特有の刑罰方法を、中共チベットで取り入れたからチベットにおける盗賊の横行が止んだというのは、論理的に成り立たない。それにしても驚くのは、国をそのものが中共という悪辣な侵略者に蹂躙されたチベット人の悲劇に全く思いをいたすことなく、むしろ’盗賊が減ったから喜べといわんばかりの中共礼賛の記事の書きっぷりに驚く。
  「【チベットの近代建設進む  立派な自動車道路】
細菌ニューデリーやネパールの首都カトマンズ方面かr地バットに“反共暴動”が起こっているという情報が盛んに流れてきて香港の国府系新聞は之を大きく取り上げているが、統治の’観測筋ではこの種の”暴動“よりも
チベット自治区準備委員会が4月22c=日正式に発足したのを機に、チベット自治組織を確立して中央との結びつきを一層緊密化していること、経済的には交通産業の面で面目を一新しつつあることの方を重視している。・・」(1956年5月22日)

 封建主義的だったチベットが、夢の追うな共産主義社会へ行こうしつつある。これを喜ばないチベット人が存在するはずがない。恐るべき妄想に基づいた朝日の記事である。

第二章 無神論集団・朝日新聞の暴走(1956〜1959)
  「【チベット暴動説は疑問  亡命者の政治的宣伝か】
このところネパールのカトマンズ、インドのデリー、カリンボンなどから盛んにチベットで反共暴動が起こっているとの報道が行なわれ、当地国府系紙は連日大々的に報じているが、当地観測筋では「針小棒大なもの」として批判的に見ている。・・・当地の一般観測筋ではチベット問題の報道は課とマンス、デリー、カリンボンに亡命しているチベットラマ教徒の話に基づいたもので、これをそのまま受け取ることは危険であるとしている。何故なら彼らは恐らく宗教的な偏見から反共意識の強い亡命者で、彼らの発言はたぶんに“政治性がある”と見ているわけである.。」(1956年7月23日)
 
    「【今日の問題  チベットの暴動説】
さる6月のポーランドの暴動に次いで同じ共産圏のチベットに、“暴動”が伝えられ、共産軍が反乱分子を爆撃したとか、反共臨時‘政府樹立の動きがあるとか、さまざまな情勢を伝える報道が続いている。ところが、これらの報道は、言い合わしたように、インドのカリボンやニューデリー、ネパールのカトマンズなどにチベットから逃げ出してきたラマ僧ラマ教徒の話によるものが多いようだ。そうだとすると、これらの報道をそのまま信用するのは、マユツバものかも知れない。・・・最近イタリア新聞の特派員が、北京政府の言明として報道しているところによると、四川省の暴動はさる2月にも起こったというから、ちょいちょい起こることは間違いないようだ。それに’しても浮世離れしたところだけに、話に尾ヒレは着くのであろう。」(1956年8月13日)

 朝日が無神論であるがゆえに、「宗教者の言っていることは全て嘘だ」という前提に立って記事を書いているということではないか。ところで、暴動説と簡単に朝日は片付けているのは、1959年3月10日に発生したラサ暴動のことである。当時のチベット情勢は緊迫した状況であたが、そのような中でぺきん政府はダライ・ラマを北京に呼び出した。が、感激に招待するといって呼び出したにもかかわらず、チベット人による護衛は禁止にするという不思議な申し出ををしてきたのである。これに対して民衆の多くが、「拉致されるのではないか、或いは換金されて暗殺冴えるのではないか」という強い恐怖感を抱いた。この恐怖は決して杞憂ではなかた。現にチベットのなかで中共のことを批判したがために命を落とした人が非常におおかたのである。例えば後の話だが、ダライ・ラマ
並ぶ高位の宗教的指導者パンチャン・ラマは公衆の前でチベットの窮状を訴え、北京政府のやり方を批判した直後に、謎の死を遂げている。

 「【中共も手を焼くチベット
中共は1951年11月にチベットへ進駐し、翌年5月ダライ・ラマとの間に「チベットの平和解放に関する協定」を結び、中共政府のチベットに対する主権を確認するとともに、チベット政府の自治権を認め、中共軍への統合、外交の中共政府による管理を規定したのであった。チベット族は’全部がラマ教徒で、‘ラマ寺院を本拠Tるるラマ僧が絶対的な政治権力を握っており、ラマ教徒はラダライ・ラマを生き仏として絶対服従を誓わされている。こうしたチベットの特異性から、中共チベット政策も慎重で、チベット自治区準備委員会が成立したのは解放後5年目の56年4月であった。そして、毛沢東首席自ら「チベット社会主義化遺贈は今後少なくとも5年間は行なわない」と保証したほどである。」(1959年3月24日) 

   中共チベット政府に対する宗主権を確認して、チベット自治と信仰の自由を認め、ダライ・ラマの地位も認めていると書いているが、朝日は宗教が
憎くて仕方が無いのである。まるで宗教が
存在するがゆえに、暴動が起こるという話を作ろうとしている。

つづく