チベット大虐殺と朝日新聞#1

チベット大虐殺と朝日新聞#1
「人の悪口ばかり言っている朝日新聞のような大人が増えると、日本がダメになる」。これは大阪府知事橋本氏の近頃の発言である。彼が裁判に負け、「弁護士資格も返上してはどうか」という朝日の挑発に応えた反論である。橋本氏のことはよく分からないが、率直な人のようである。また赤字財政の大阪を立て直すべく奮闘している若手の政治家として好感がもてる。ところが、 今回は売られた喧嘩は買うというような感情論のように人には見られてしまう。たとえ正論であってもいくらかマイナスされてしまうであろう。(ただし、これから本気で朝日を潰すぐらいの論戦を張るなら多いに評価してもよい。橋本氏の今後の動きに期待したいところだ)
 これから述べる、若き保守の論客・岩田温の「チベット大虐殺と朝日新聞」は、チベットの真実を知ると同時に、朝日の正体を知るのに絶好の本である。岩田が取り上げている朝日の報道は全て事実であるから、説得力がある。岩田温は1983年生まれというから、私が渡米した1979年にはまだこの世に出現していない。このような若者が、実証的な研究をしてくれたことに、日本の未来もまんざらではないと思う。ただ研究肌だけでなく社会正義という熱血漢が言葉の端々に飛び出している。
 この本は2008年9月7日第1版1刷発行(発行所:株式会社オークラ出版)となっているが、特に、第8章 日本が赤旗に侵略される日〜長野「聖火リレー」レポート〜の記述は、北京オリンピック直前に書かれたものであろう。

では各章ごとに、岩田の論点を整理してみる。そして、私の感想を遂次入れていく。私の感想は<   >でくぎる。<span style="font-size:medium;">はじめに  朝日新聞の呪縛から自由になるために  
朝日新聞」には「インテリの新聞」、「高所得者が読む新聞」、「受検に出る新聞」というイメージが一般的であるが、「自らのイデオロギーのためにはプロパガンダもいとわない新聞」。「利潤のためであれば、いくらでも節操を曲げる新聞」であると理解している良識派は少ない。北朝鮮を「地上の楽園」と呼び、カンボジアポルポト派が大虐殺を行なっているとき、ポルポトを「アジア的優しさにあふれている」と書いたのが朝日である。2008年6月18日夕刊第一面のコラム「素粒子」では、「永世死刑執行人 鳩山法相。『自信と責任』に胸を張り、2ヶ月間隔でゴーサイン出して新記録達成。またの名、死に神」と書いた朝日。この記事は死刑囚宮崎勤がようやく死刑になった次の日に掲載されている。多くの抗議があり、それに対して、「あくまで風刺であった。風刺コラムはつくづく難しいと思う。法相らを中傷する意図は全くありません。表現の技量をもっと磨かなければ」と言い逃れする朝日。2008年3月20日の「朝日歌壇」に投稿とはいえ載った川柳。「五輪まえ どうにも邪魔な 生き仏」。この掲載に対しての抗議の電話に、「これは中国のことを風刺した川柳です」と答える厚顔無恥な朝日広報担当者。そのような朝日に対して、「朝日新聞チベットに対してどのような報道を行なってきたかを、事実に基づいて、検証していく」と岩田のボルテージはあがる。
第一章 豹変する朝日新聞(1945〜1956)
   1949年、中共チベット侵攻が始まる。1950年、戦後初めて朝日はチベット問題を取り上げた。
 社説  【チベットをめぐる紛争】  
  「チベット中共の軍進撃を阻止する力をもっていない。軍隊は多くて3万をでまいし、軽火器で装備されている程度である。中国から隔離している困難な地勢だけで、中共軍を阻むことはできないであろう。ダライ・ラマは早晩外国に亡命するほかはあるまい。半世紀にわたった中国、イギリス、ロシア三国のチベットの支配権争奪をめぐる闘争は中国の勝利に帰することとなる。・・・・中共チベットを制圧すると、共産主義の脅威は東南アジアからさらなる中東にまで及ぶことになる。ネパールやブータンのような緩衝国の地位は少なからず不安となる。1300マイルにわたる国境を接するインドも、共産主義の浸透に対して重大な関心を払わざるを得なくなる」。
  1950年の段階で、朝日は共産主義が脅威であると認識している。

  1950年とは朝鮮戦争が始まった年である。世界の目が朝鮮半島に釘付けられた隙をついて毛沢東は卑劣にもチベットに侵攻した。
  GHQが占領開始当初、親共産主義であった。ところが1947年に入ると、2・1ゼネストをめぐって、GHQと共産党との間に緊張が高まった。共産党に対する警戒が強まっていた最中に勃発したのが朝鮮戦争であった。
  朝鮮戦争が始まってすぐの1950年7月4日、朝日は「軽挙を戒む」という社説にこう述べている。
 「占領下にある国民としては、徒らに不安に脅えず、また興奮することなく、静かに、当面の日本に課せられている降伏条件の遂行に、特に忠実であり細心であることが大切である」
   朝日は朝鮮戦争に対して、きわめて中立的であろうとした。ところが、7月6日朝日新聞社長長谷部忠はGHQの新聞課長インボデン中佐に呼びつけられ、「朝鮮戦争についてはいずれが正でいずれが邪か、善か悪かの二者択一しかありえない。朝日新聞の態度は気に食わぬ」と一方的にまくし立てられた。さらに7月24日には朝日社内に共産党員がもぐりこんでいる可能性があるとして、GHQによって厳しい調査がされることになった。社員のかなり詳しいリストができあがり、それに基づいて厳しい指導が行なわれるようになった。また同時期の7月18日には共産党の機関紙「赤旗」がマッカーサーの命令によって無期限の停刊を命じられた。その理由について、7月19日付の朝日新聞には詳しく掲載されている。
 「今日までの諸事件は共産主義が公共の報道機関を利用して破壊的暴力的綱領を宣伝し、無責任、不法の少数分子を扇動して、法に背き秩序を乱し、公共の福祉を損める危険が明白なことを警告している。それゆえ日本において共産主義言論の自由を濫用して不法な扇動を続ける限り、公共報道の自由を彼らに使用させることは公共の利益のため拒否されねばならぬ」
  明らかに朝日が赤旗のように無期限の発行停止処分をくらうことを恐れのための防衛本能のためが働いたと見ることが出来る。
  他にも真っ当な記事も書いている。
「【中共チベット侵入】 【かねて慎重に準備】  【インドには重大脅威】
解説  中国は18世紀以来チベットに対して宗主権を主張して来たがそれは名目上のものに過ぎなかった。1949年7月ダライ・ラマ政府は、中国政府の在駐弁事処員の中に共産分子が入っていることを口実として全員の国外退去を要求した。一方中共は北京政府の成立に際し、チベットに対する中国の宗主権を宣言し、その後も機会あるごとにチベットは中国領土の一部であり、近くこれを帝国主導的支配者の手から解放するということを言明して来た。(1950年11月2日)」
   ところが、1952年4月28日、日本は主権を回復し、ついに6年8ヶ月におよぶGHQの占領が終結してから、朝日の暴走が始まった。その暴走は容共というより、親共産主義的というのがふさわしい。つまり単に共産主義者がいても構わないというレベルではなく、共産主義者が拡大すればよい、ソ連中共が日本に攻めて来てくれればよい、そういう意味の「親共」なのである。
  この当時、チベットでは人民解放軍による大虐殺、文化大破壊が始まっていた。ところが、その最中にかかわらず、朝日は次のような記事を書いている。
  「【進まぬ土地改革】  【革命序盤の段階】  【チベット
 5月4日、チベットの青年たちは晩春の陽だしを背一ぱいにあいながらかつて中国青年の血をわかせた五四運動を記念する数々の行事をくりひろげた。新緑鮮やかなラサ公園は3千人の青年男女で埋められ、革命歌や労働歌のコーラスは、夜ふけるまで世界の屋根チベット高原にどよもしていった。・・・・中共は活仏信仰に関与しないばかりか、むしろパンチェン・ラマのご託宣という形で、これまで反中国的だったダライ・ラマの勢力を抑え、チベット内政を固めることに努めているようだ。しかし中共チベットの革命を忘れたわけではない。チベット人民軍が増設され、ツェランロスとパメイツェデン両族の13年間にわたるナワばり争いは止んだ。チベット語の新中国紹介映画、北京留学、学校開設、道路、橋・・しかし、この盛リ沢山な改革の中にも土地改革が見当たらない。チベットではラマ寺の多くの農園を所有している。だから土地改革が完全に実現すれば、その時こそラマ教の土台が根底からゆるがすことになるだろう。農村革命が進めば、これまで分家独立すれば、労働税やその他の負担がかさむため、自然と大家族の形をとった“一妻他夫”の解消も一層促進されるだろう。中共チベットの宗教と生活に今後どんなメスを振るうか。まだいまのところチベット革命は序幕の段階にすきないようだ。(1953年6月2日)
つづく