ビルマ(ミャンマー)#33

ビルマミャンマー)#33
16) 天然資源の大半は少数民族地域にある。
17) ビルマ人難民への日本政府の対応に問題がある。
18) ビルマの法律では国民を、「国民」「準国民」「帰化国民」の3つの階級に分けている。第一次英緬戦争(1823年)前からビルマに住んでいたことが証明できる人が「国民」。1948年の独立時に国民として認められた人が「準国民」。そのあと帰化が認められた人が「帰化国民」となる。「準国民」「帰化国民」は公務員になることはおろか、理工系の大学に進学することができない。
19) ビルマではイスラム教徒は、いわばカースト制の最下層の不可触選民のようである。ビルマ政府がイスラム教徒を毛嫌いする理由は、植民地時代から続くビルマ人とイスラム教徒の対立がある。イギリスはこの対立構造をビルマ統治に利用した。
20) ビルマの隣には人口1億を超えるバングラデシュというイスラム国家がある。この国からビルマに越境してくるイスラム教徒はあとを絶たない。現在アラカン州の人口の過半数に当たる150万人はイスラム教徒だといわれている。
21) 雨季の3ヶ月間は安居(あんご)の期間で、僧は一定の僧院にとどまり修行を行なう。俗界との交わりも少なくなるので、僧侶の心はいっそう純粋になる。雨季と乾季は対照的な意味をもつ。雨季が聖性の優越する季節であり、乾季は俗的な動きの活発化する季節である。結婚式は俗的なこととされ、安居の期間中には行なわれない。
22) 女子の高等教育への進学率は男子より高い。製造業の男女の賃金格差が世界で一番小さい(男性100に対して女性97)(1990年の統計によると)。
23) カレン語の文字には、キリスト教スゴー・カレン文字、仏教スゴー・カレン文字、キリスト教ボー・カレン文字、仏教ボー文字。カレン文字、レーケー教ボー・カレン文字その他がある。キリスト教スゴー・カレン文字は、19世紀の前半にアメリカ人のキリスト教バプティスト派宣教師ウェイドによってビルマ文字をもとに考案された。ボー・カレン文字はアメリカ人のバプティスト派宣教師ブレイトンによって19世紀の中頃にキリスト教スゴー・カレン文字を範として考案された。仏教ボー文字はモン文字に範としたもので、現存するカレン文字の中で最も古いとされる。なお、レーケー教ボー・カレン文字をつくったレ−ケー教は弥勒菩薩を信仰の対象としており、信者たちは19世紀に考案された「鶏の足跡」と呼ばれる独特の文字を使用している。それぞれの文字が特定の宗教と関連しているだけに、文字をめぐって宗教的な不和が表面化することがある。
24) 母親が駐インド大使に任命された1960年、アウンサンスーチーは15歳でビルマを出て、デリーの高校へ転校する。その後現地のカレッジを卒業して、イギリスのオックスフォード大学セント・ヒューズ・カレッジに進学する。そこで文学や政治学などを学んで卒業すると、67年、アメリカのニューヨークの国連本部に採用され勤務を始める。当時、国連事務局長のウー・タントの推薦があったとされる。その後、1972年イギリス人のチベット研究者マイケル・アースと結婚後、いわゆる専業主婦の生活に入る。結婚のさい、かつての宗主国であるイギリスの人を夫にすることについて、家族やビルマの国民が誤解しないかどうか、相当悩んだようである。アリス氏に結婚前「もし国民が私を必要とした時には、私が彼らのために責任を果たすために協力して下さい」と記した手紙を送っている。その後二人の息子をもうけ、子育てのかたわらロンドン大学東洋アフリカ研究学部でビルマ文学とナショナリズムとの関係をテーマにした博士論文の執筆を進めた。しかし、彼女の一番の関心は父アウンサンの生きてきた道のりと生き方を知ることであった。そのためロンドの公文書館などを通って、戦前・戦中・戦後のビルマ関係のイギリス側一次資料の調査や、アウンサンと接触したことのある元日本軍関係者からの聞き取り調査をおこなうため、2年間日本語を勉強し、1985年から86年にかけて国際交流基金の招聘で京都大学東南アジア研究所センターに客員研究員として滞在した。その後ビルマ経由でオックスフォードに戻った。
25) 1988年3月、ヤンゴンから母親重病の連絡を受け、看病のため母国に帰国。当時学生たちの反体制運動が盛り上がりを見せている時期であった。同年8月26日、ヤンゴン、シュエダゴン・パゴダ西側広場で、数万人が集まる中、彼女は国民に向け第一声を発した。「私たちのこの闘いは『第二の独立運動』とも言えるものです」。ここに父親の「夢」を継承しようとする彼女の意図が伺われる。1948年に主権国家としての地位は実現したが、その中身については理想から程遠い状態にあり、国民が団結してビルマの本当の独立を勝ち取るという意味が「第2の独立運動」という言葉になったものと考えられる。軍事政権誕生後、アウンサンスーチーはNLDの書記長になる。その後彼女は各地で人権や「民主主義」について分かりやすく説き、人々の多くは彼女とNLDへの支持と期待を強めた。その間彼女は少数民族のかかえている厳しい状況や国民各層の現状への不満を肌で感じるようになり、強い使命感をもつようになる。地方遊説から戻ったスーチーは「不当な権力や法には従う必要なし」という非暴力に基づく市民的抵抗権を明確に主張するようになった。さらに、「ネーウィンや軍事政権の幹部は父アウンサンの遺志を踏みにじってきた」という趣旨の発言を公の集会でおこなっている。その結果、彼女は1995年7月までの6年間、軍事政権によって自宅軟禁に処せられた。その間90年の総選挙においてNLDが議席の80%強を占めて圧勝したが、軍事政権は政権移譲を拒否し、別個に任命した人々からなる「国民会議」を設置して、新憲法の草案審議を開始した。そしてスーチーを解放した後も、NLD敵視政策を変えず、彼女は引き続き不自由な立場におき続けた。これに対して、1991年自宅軟禁中のスーチーにノーベル平和賞が授与された。
26) ビルマの伝統的価値観があった。仏教を擁護し、仏法によって民衆を支配するダマヤーザー(正法王)、ボダヤーザー(仏教王)、混乱した世の中に仏法によって平安をもたらす救世主的存在セッチャーミン(転輪聖王)等が「ポン(徳、力)」と「ミッター(慈悲)」をもって民衆を統治する。民衆は何の憂いもなく平穏に生活することができる。そんな社会が理想とされていた。人々にとって世界は、道徳的善に満ちた世界であった。
27) 11世紀なかば、ヤカイン地方を除く今日のビルマのほぼ全域を勢力下に収めた政治権力が、イラワディ川中流域に突如として出現した。パロン王国(1044〜1287)である。今日のビルマの人口の7割近くを占めるビルマ民族の作った最初の王朝である。北への勢力拡大を目指し、労働力の調達と貿易の拡大を図るが、それが、最終的にモンゴル帝国と対立を引き起こし、13世紀末には、パガン王国は崩壊していった。
28) 1852年に下ビルマがイギリスの支配下におかれると、下ビルマ米が海外に流出しだし、上ビルマに食糧難や大飢饉を発生させた。そのため、上ビルマに残されたビルマ民族の王朝コンバウン朝は次第に弱体化した。1885年に遂にイギリスに征服され、ビルマ全土は英領植民地となってしまった。
29) 転生を決めるのは個々人の持つカン(業)である。それは、善行をおこなうことにより積まれるクード(功徳)と、悪行によりもたらせるアークードーとの差し引き計算によって良くも悪くもなる。僧になるのは最高の功徳を積むことであり、その葬式をポンジービャン(僧が飛ぶ)と表現する。僧は天界に付され、その時に登る煙で天に行っていることを知る。骨は仏塔型の墓に納められることが多い。かつての国王や王妃なども火葬で、その死をナッピーサン(精霊の国に生まれる)というように、天界に転生するとされる。しかし天界の住人といえども輪廻転生をまぬがれない。本質的に苦と規定されるこの世の輪廻から脱け出るのは、天界のさらに上にあるとされるネイバン(涅槃)に行くことで成就される。仏教徒の究極の目標のネイバンへは、この世のあらゆる存在が仮のすがたであると悟りを開くことで到達される。

つづく