映画「南京の真実」第一部

映画「南京の真実」第一部
先日、10月14日、映画「南京の真実」を観た。試写会であり、この映画の監督水島総氏も日本からやってきて、映画上映後の質疑応答に答えていた。週日の午後2時開演ということもあって、少ない観客であった。主催者はアメリカのジャーナリストが来てくれることを望んでいたのであろうが、一般日系人そして日系のジャーナリスト、それにほんの一握りのアメリカ人しか来場者がなかった。確かなことはわからないが、ひょっとして、中国系ジャーナリストも来ていたのかもしれない。
 映画の内容であるが、A級戦犯東条を含む7人の処刑までの24時間を克明に描いていた。最初の場面で、広島長崎の原爆、そして南京陥落、それ以降の南京城内の映像が流れていた。ある映像は、プロパガンダ用に作られたものであろう。場面は南京城内、陸軍部隊の前、中国の子供たちが爆竹を鳴らして楽しんでいる。恐らく撮影班が爆竹を子供たちに渡して、「やってごらん」と指示を与えたのだろう。子供たちは無邪気な表情で楽しんでいる。もし大虐殺があったとするなら、子供たちは日本軍の側にも寄らないし。あのような朗らかな表情などできない。この映像はやらせの要素は確かにあるが、子どもの心までやらせてはいない。
  映画全体の構成は能舞台の影絵から現実の7人の人間性を浮きあがらせている。能のことはよくわからないが、能とは死者の霊が語りかけてくるという筋が多いと聞く。7人の志半ばであの世に行ったといわれる人物の能面をかぶり、能師が謡曲にあわせて舞う。7人の死霊があの世から語りかけているのである。この能面の顔つきは我々がよく見る、美しい女性でも鬼でもない。どうもよく知られた能面らしい。私には非常に新鮮な表情に見えた。どこか個性の強い暴走族のお兄ちゃんのようにも見えるし、昔あのような顔のおっちゃんが田舎にはいたようにも思った。現代風であり、また現代人にはあのような顔はないと思ったりして、私は水島氏の創作面だと思ったぐらいである。
 戒教師花山信勝に7人が遺言を残す。それぞれ俳優が演じているのであるが、よくも死に行く人間の心を表現できたものだと感心した。それも、戦前の指導者である。家族の行く末を心配する者もいるが、日本の未来を憂い、しかも威厳を持って死地に臨む人間を感情移入して演じていた。これは驚きであると同時に、俳優たちの精神の高さを物語っていると思った。そうでなければ、あれほど真実に迫る演技はできないであろう。土肥原であったか板垣を演じた俳優であったか忘れたが、撮影中、家に帰ってもその役になりきっていたと彼の奥さんが語ったという。ただ私の関心事は、殆どの人間が南無阿弥陀の世界に安住の心を求めていたことである。一人は南無妙法蓮華経の人がいた。広田弘毅だけが禅の世界である。彼は文人として一人処刑されたのであるが、裁判では一切語らず、他の6人とは異質な感じであった。それを寺田農が上手く演じていた。万歳(ばんざい)を「漫才(まんざい)しましょうか」と言ってみたり、彼の死生観は他の人間と違っているように見受けた。
  実は水島氏を囲んで夕食をしたのであるが、映画作りの裏話をいくらか伺った。広田弘毅は落下の時瞬時に首を曲げたため、頚動脈を切り、本当は血が相当噴出していたとか。7人の処刑の場面は赤々と照らし出された照明の下撮影されたという。もしそうだとするなら、全てのシーンが記録されているはずである。ところが、それがあるかさえ今のところ分かっていないという。
  東京裁判で被告側弁護人ブレークニーが、弁護するシーンがこの映画で登場している。この映像入手の苦労話を水島氏から聞いた。ある図書館にそれがあることを突きとめ、スタッフ(彼自身だったかな)をアメリカに派遣して4度目でようやくこの場面の映像を取り入れることが出来たと。情報公開を原則にしているアメリカでも、アメリカに不利益になる資料はなるべく渡したくないのだろう。
 この映画をアメリカ人が見た場合どういう感想を持つかというまえに、まず見ない、見たくないであろう。最初に登場する広島長崎の原爆のシーンは一番見たくないものである。一般アメリカ人は現実を見たくない人種である。太平洋戦争、朝鮮戦争ベトナム戦争と実際に兵隊として行った人は戦争の現実をみているが、一般アメリカ人は対岸で起きたこととしてしか感じることが出来ないのである。いつの時代もアメリカ人は夢を見ている。ホームレスになって、死を迎えるようになってはじめて現実を知るのである。この夢を現世的夢と名づける。今がよければよいという夢なのだ。今アメリカは経済危機を迎えようとしている。しかし、現実的生活にまだ破綻が生じているわけでなく、ワールドシリーズに興奮し、大統領選挙戦をアカデミー賞の行方を眺めている程度に見ている。
 だから、この映画をアメリカで上映する意義がないかといえばそうではない。たとえ少なくとも、アメリカの少数の人の目に焼きつかせることは意味がある。支那中共は延べ300億円以上の金をつぎ込み。世界各国で10本以上の南京の映画を作らせた。日本は政府の援助がない。水島氏だけの映画である。水島氏も言っていたが、「ゼロと一の違いは大きい」。大虐殺どころか殺人事件さえ数件しか起きていない南京事件がこれほど世界に広がったのは、中共の情報宣伝工作以外のなにものでもない。映画のパンフレットの監督の言葉を借用すると、中共の情報宣伝工作の目的は3つ挙げられる。?「南京大虐殺」という歴史的捏造によって、中国共産党政権が成立以来繰り返して来た自国民に対する「大虐殺」を隠蔽すること。?戦争準備。内部の矛盾を外部に転嫁しようとする準備が「南京大虐殺」キャンペーンである。中国国民に憎悪の対象たる「敵」を設定し、非道な一党独裁体制への人民の怒りを日本に向けさせようとしている。?日本に対して常に精神的優位に立つための決定的「歴史カード」の設定である。従軍慰安婦や遺棄兵器問題等に対する日本政府と日本国民のあやふやで腑抜けた臆病な対応を見て、70年前の架空の出来事でも、充分、金や技術が我が国から奪えると理解しているのである。
  中共の宣伝工作は実に巧妙である。孫子の兵法ではないが、まず敵を知ることである。水島氏も言っていたが、中共のトップは優秀である。水島さんの周りには中共の優秀な人間が集まってきて本音で議論をしてくるという。ただ同僚が来ると建前論理にスイッチするという。ソ連崩壊後中国はなぜソ連が崩壊したかを充分研究した。そしてその結論が「妥協しないこと」となった。少数民族弾圧、「南京大虐殺」もあったかどうかの歴史的検証などどうでもよい、「間違いなくあったのである」という演繹論法を突っ走ることである。中国共産党で出世したければ、妥協のないこの演繹論法を完全にマスターすることである。ただ、帰納法を重要視する日本民族の代表の水島氏に近づき、その論法の何たるかを観察し、それを超える演繹法を磨きあげることが必要になる。
  中国共産党は偉大なる毛沢東革命により、中国を統一し、封建的領主によって奴隷として虐げられていた少数民族漢民族という優秀な民族によって同化してやり、世界の虐げられた人々の解放のために中国は飛躍していった。経済的発展には少し難があったが、勝g小平同志によって解放経済が導入され、今や日本帝国主義を追い越し、アジアのトップに立とうとしている。それだけ世界の平和に貢献する義務が生じてきたのである。そういう意味でも日帝の過去に行なった中国侵略はいつまでも糾弾しなければならないし、特に南京大虐殺アウシュビッツユダヤ人大虐殺、広島長崎の原爆投下と同じように、世界遺産に登録し人類の不幸な歴史をしっかりと刻む必要がある。そして、今後、中国は物質、精神両面でおいて世界の平和に貢献していかなければならない。だからそれを阻害するどのようなことも断固妥協なく阻止していかなければならない。

  最後にブレークニー氏の東京裁判における彼の真正面からの問いかけを載せる。
 
 「国家の行為である戦争の個人責任を問うことは、法律的に誤りである。なぜならば、国際法は国家に対して適用されるのであって、個人に対しては無い。個人による戦争行為という新しい犯罪をこの法廷が裁くのは誤りである。戦争での殺人は罪にならない。それは殺人罪では無い。戦争は合的だからです。つまり合法的な人殺しなのです。殺人行為の正当化です。たとえ嫌悪すべき行為でも、犯罪としての責任は問われなかったのです。キッド提督の死が真珠湾爆撃による殺人罪ならば、我々はヒロシマに原爆を投下した者の名前を挙げることが出来る。投下を計画した参謀長の名前も承知している。その国の元首の名前も、我々は承知している。彼らは殺人罪を意識していたか。していまい。我々もそう思う。それは彼等の戦闘行為が正義で、敵の行為が不正義だからではなく、戦争自体が犯罪ではないからである。何の罪科で、いかなる証拠で、戦争による殺人が違法なのか。原爆を投下した者がいる!この投下を計画し、その実行を命じ、黙認した者がいる!その人たちが裁いているのだ!」
木庵