ビルマ(ミャンマー)#22

ビルマミャンマー)#22
外部から隔離されたネピドーの官庁施設は謎に包まれている。時おり外部に流出するビデオ映像などから、タン・シュエ議長の娘の結婚披露宴でダイヤモンドを身に着けた花嫁や豪華マンションなど、ミャンマー官僚の贅沢な生活の一端を知ることができる程度だ。

 評論家によれば、タン・シュエ議長が首都を山奥に移設した理由の1つは、都市部の抗議デモを避けるためだという。ヤンゴンでは26日早朝、僧侶による抗議デモを阻止すべく軍政が主要パゴダ(仏塔)や寺院周辺に治安部隊や兵士を配備している。また前日夜には、ヤンゴンおよびミャンマー第2の都市マンダレー(Mandalay)に夜間外出禁止令が出され、集会も禁止された。

 ヤンゴン駐在の欧米外交官は「何が起きてもおかしくない状況だ」と語り、2つの都市に出された夜間外出禁止令を事実上の非常事態と受け止めている。

 これほどの大規模なデモは学生が中心となった1988年の民主化要求デモ以来のことだ。しかし、この時のデモは軍部により弾圧され、3000人以上の死者を出した。この時の悲劇はいまだにミャンマー国民の記憶に深く刻まれている。それでも仏教僧らの主導で始まったデモは、この2日間で10万人規模に拡大した。

 「タン・シュエ議長の最終的な野望は国内全土に敷いた徹底した軍政を維持することだ」と人権監視グループ「ヒューマン・ライツ・ウオッチ(Human Rights Watch)」のDavid Mathieson氏は語る。「軍部が国の最高機関として国内を支配するのは軍政指導者らにとって合理的な考えなのだ。それが星占いの結果なのか、政治的判断によるものなのか知らないが」

 問題の原因の1つは、世界の最貧国20位以内に入るミャンマー国民の窮状をタン・シュエ議長が理解していないことだとMathieson氏は指摘する。「ミャンマー各地を視察する役人らは現状を把握していると思われるが、おそらく議長を恐れて事実を告げられずにいるのだろう」

 軍事アナリストのWin Min氏は、軍政側にとってこれほどの大規模なデモは予想外だったとみる。「諜報機関は処分を恐れて、デモが10万人規模に拡大している事実をタン・シュエ議長に報告できないのでは」

 タン・シュエ議長は、20年来の大規模デモに発展した仏教僧が主導する反軍政デモに対しては、今のところは目だった反応を示していない。(c)AFP/Griffin Shea

<近頃、ビルマに関してのブログが動いている。特にビルマ僧侶のデモが、ビルマへの関心を引き寄せているのであろう。ぼつぼつ私のビルマ論を終わろうとしているのに、次から次へと新しい情報が入り、それを載せないわけにいかなくなってきた。特に1988年9月、タン・シュエ議長らが率いる軍部が独裁体制を敷いたネ・ウィン(Ne Win)将軍へのクーデターを決行してから後のビルマ情勢を知りたいと思っていた。それを教えてくれるブログがどんどん出現し、それに刺激されているというのが今の私の現状であり。さきほど、ブログ「世に久しきことわり侍らじ」の『ミャンマー共産主義者とマスコミ 』と題する記事を見つけた。彼のブログの一部をコピーさせて頂く。>

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<以下はブログ「世に久しきことわり侍らじ」から引用>
http://koku.iza.ne.jp/blog/entry/320612/allcmt/

  ミャンマーの話がテレビにも出てきて騒がしい。そこで本を紹介したい。著者は、ミャンマーの元日本大使山口洋一氏。「ミャンマーの実像」勁草書房 1999年。
 
この本の中に、ミャンマーでの民主化勢力の代表的存在で、海外でも知られるアウンサン・スー・チー女史について書いてある。テレビでは若く見えるのだが、女史は今年で62才。
 
 スー・チー女史の立場とその主張
 
アウン・サン・スー・チー女史は1945年6月19日アウン・サン将軍の娘としてラングーンに生まれた。父のアウン・サン将軍は独立を目前に控えて、1947年7月19日32才の若さで凶弾に倒れた。娘のスー・チーはこのとき生まれて2才1ヶ月、彼女が物心もつかぬ幼子の時に起った惨劇であった。
 
アウン・サン将軍は今日でも独立の英雄として国民から慕われており、そのカリスマ性は絶大である。将軍は紙幣に登場するのは勿論のこと、その肖像画は商店やレストランの壁にも飾られており、町中どこへ行っても目にとまる。ヤンゴンのカンドージ湖のほとりにある日本大使公邸は、「アウン・サン将軍公園」に面しており、公邸から道をへだてた向こう側に立つ将軍の銅像は日本大使の公邸に視線を投げかけている。(略)
 
 
父を失ったスー・チー女史は母親キン・チーの手で厳しく育てられ、やがて母親がインド大使として赴任することになると、母に伴われて15才の彼女もインドに赴いた。それ以降、彼女は、ニュー・デリーとオックスフォードでの学生生活、ニューヨークでの国連の仕事、イギリス人マイケル・アリスと結婚してからはブータンでの新婚生活、ロンドンでの出産と子育て、そして京都での研究生活と世界のあちこちを転々とした。
 
この間彼女は、将来政治家となるような教育を受けたことはなく、実際に政治のかかわったこともまったくなかった。政治的野心を持たず、むしろ政治嫌いの彼女は研究者の道を歩もうと志し、父の生涯とビルマ文学の研究に専念しようと考えていたのである。
 
 
政治の表舞台へ
 
ところが、たまたま1988年4月、彼女は母が脳卒中で倒れたという知らせを受け、ヤンゴンに戻ってくる。この時ヤンゴンでは、その直前の3月12日ヤンゴン工科大学近くの喫茶店で起きた学生と酔っ払いの喧嘩という偶発事件を発端に、騒乱が徐々にエスカレートする不穏な兆しが見えはじめていたのである。
 
騒乱が激しさを増していく中、7月19日はアウン・サン将軍が凶弾に倒れた命日に当たり、「殉難の日」と呼ばれる国民の祝日である。毎年アウン・サン将軍を偲ぶ追悼式には未亡人であるスー・チー女史の母が出席していたが、88年は病床にある母に代わりスー・チー女史が出席する。翌日の新聞は一面に大きな写真とともに彼女のことを報道した。こうして、それまでには限られた人にしか知られていなかった彼女が帰国しているという事実が、広く国民の知るところとなり、彼女は注目の的となった。(略)つづく