ビルマ(ミャンマー)#23

ビルマミャンマー)#23

こうして担ぎ出されたスー・チー女史は、連日デモや演説集会の嵐が吹き荒れ、街中が騒然とした雰囲気に包まれる8月末頃から、大衆に向けて演説を行い、表舞台に登場してくるのである。
 
彼女が大衆の前に本格的にデビューしたのは8月26日シュエダゴン・パゴダにおける数千の群集を前にしての演説であった。その時、壇上には11人の人物が並んだが、この内9人は誰もが知っている著名な共産主義者であった。共産主義者が彼女を担ぎだして利用しようとしたのである。彼女は彼女で自分の表舞台登場に彼らを利用し、いずれ自分が彼らをコントロールできると踏んでいたのだろう。筋金入りの共産主義者タキン・ティン・ミャーは女史の家にオフィスをかまえていた。
 
この時期、ヤンゴンでは、ティン・ウー(元国防大臣、現NLDの副議長)の勢力とアウン・ジー(元商工大臣、現民間実業家)の勢力とスー・チー女史の勢力はそれぞれ別個に演説を行い、行動していた。この3勢力がバラバラに動いていたのでは効果的な活動はできない。そこで3者がまとまって事態収拾にあたる暫定管理内閣を作る要ありとの発想が生まれ、9月中旬に3人が集まって協議を始めた。
 
ところがそうこうする内に、9月18日にはクーデターが起って、国家秩序回復評議会(SLORC)の軍事政権が成立する。
 
一方、3者のほうは、3者それぞれの勢力から14人づつを出して、これらの者が中心となって新たな政党を創ることとした。9月24日、3勢力からの各14人が一堂に会し、国民民主連盟(NLD)の結成に合意した。このとき集まったティン・ウー勢力の14人は全て退役軍人。アウン・ジー勢力は軍人、学者、経済人など雑多。スー・チー女史勢力は14人のうち12人が共産主義者として知れ渡った人物であった。こうして結成されたNLDは9月27日に政党としての認可を得て、正式の発足、スー・チー女史は総書記に就任した。
 
NLDの総書記に就任した彼女は、さっそく全国各地方における旧共産党の組織を活性化し、再組織する仕事にとりかかった。こうした動きに懸念をもったアウン・ジーは、スー・チー派内の共産主義者の中の8人を追放するよう要求したが、彼女はこれを拒否し、12月5日彼女は多数派工作を整えた上での党決議により、逆にアウン・ジー派を追放してしまった。
 
政治の表舞台に頭角を現した彼女は、政治的経験はまったくなかったが、演説には抜群の才能を示し、聴衆を引き付けると同時に、世界のマスメディアに強くアピールした。
 
一般にミャンマー人の国民性は控えめな性格で、自己主張をせず、PRが不得手であることについては既に述べたが、スー・チー女史は全く異なっている。彼女はPRは得意中の得意である。15才で国を出てからずっと外国を転々とし、イギリス人と結婚し、イギリスでの生活が長い彼女は、性格や思考様式では、ミャンマー人というよりすっかり西洋人となっている。したがって「控えめな性格でPRは不得手」といったミャンマー人の特徴は彼女にはまったく当たらない。外国の新聞やテレビのインタビューとなれば「待ってました」とばかりに受けてたち、外国のマスコミ受けするような実に巧妙なやり方で滔々とまくしたてる。」
 
 
 以上を読んでどう感じられるだろうか。民主化の旗手、家に閉じ込められた可哀想なスー・チーさん、というイメージとは少し違うのがわかる。
 
いちばんびっくりするのは、彼女が共産党の広告塔だったことだ。生まれた国へ戻ってみれば、政治に関心もなかったのに、宣伝に利用されてしまった。当人は気に入ってるようだけれど。ただ、スー・チー女史自身が共産主義なのかどうかは不明と言っておかねばならない。ただ、おおいに頷けるところがあると思っているのは確かだろう。共産主義シンパには違いない。
 
この後、1990年に国民議会議員選挙が行われ「、国民民主連盟(NLD)392、シャン諸民族民主連盟(SNLD)23を獲得、国民統一党(NUP)10、その他諸政党が60の議席」(WIKI)となった。
 
しかし軍政側は、これを認めていない。たぶんアウン・サン将軍の娘スー・チー女史の人気で大勝したNLD議員に多数の共産主義者がいたからではないだろうかと推測する。
 
ふつう軍事政権と民主化勢力といわれるが、じつは軍事政権側は社会主義民主化勢力といわれるスー・チー女史のNLDは共産主義なのだ。共産主義社会主義との闘争だ。
 
だから安易にスー・チー女史=民主化のリーダーと考えていたら間違う。一般に共産主義者、左翼というものは、いったん権力を握ったら言論の自由はどこへやら行ってしまって、政権奪取のときに声高に唱えていた政権の腐敗一掃もどこへやら、こんどは自分たちが腐敗しまくって省みることがないというのが通例。中国共産党も昔は国民党の腐敗を追及していたものだ。
 
 
上記の本によると、ミャンマーの軍事政権はかなりまじめに国の問題にとりくんでいるようだ。マスコミでいわれる政権に近い軍人の親族による事業とか、豪華な結婚式などは、開発途上国ではよくあることで、東南アジアからアフリカへの地域の諸国はたいていそうだ。貧乏人も多いが、目をむくような富豪もたくさんいる。いまさらいうまでもない。
<引用終わり>

<2008年9月26日の朝日新聞の記事を要約する(ここから木庵の記事>
1) ミャンマー軍事政権が、僧侶や市民による大規模な反政府デモを武力弾圧したのは、一年前の今日であった。
2) 夜10時半過ぎ、僧院が立ち並びヤンゴン中心部の通りで、7,8人の治安警察が小銃を持って、荷台に男性を乗せたトラックが僧院の方へ曲がろうとすると、制止し、職務質問を始めた。
3) デモ1年を前に、軍政は僧院周辺だけでなく主な交差点に警察官を配置し、警戒態勢をとり始めた。
4) デモの中心だった僧侶への締め付けは徹底している。多くは強制的に還俗させられたり、故郷に送り返されたりした。僧院は所属する僧侶の名前や父母名、出身地、年齢、僧歴のリストの提出も義務付けられた。役人が月に一度のペースで深夜に踏み込み、リスト以外の人が居れば僧院の責任者も逮捕されたという。「もう俗人と同じ扱いだ。僧侶たちが連帯して再び立ち上がるのはかなり難しい」と、ある僧は語った。
5) 主要な活動家はほとんどが逮捕された。民主化運動指導者のアウン・サン・スー・チーさんが率いる国民民主連盟(NLD)も スー・チーさんや副議長の自宅軟禁が続き、活動家も相ついで拘束されるなど、身動きが取れない状況だ。
つづく