田丸美寿々#1

田丸美寿々#1
    先日、「ニュースキャスター田丸美寿々という本を見つけ、借りて読んでみた(著者:板倉久子。発行所:理論社、2001年7月第一刷発行)。
   TBS「報道特集」は、ここロスでも流れてくる。 土曜日午後6時半という時間帯で、色々なトピックスに美人キャスター田丸美寿々が鋭く又女性らしい感性で問題を分析している。
  彼女については、以前週刊誌で、彼女をただの美人アナで終わらせるのではなく、ジャーナリストとしての教養を身につけさせるために献身したある男との関係について書いてあった記事を読んだことがあった。この本の中でも、「少年剣士」として登場する。
 「少年剣士というのはただやみくもに剣をふりまわし、強そうに虚勢をはっているだけで、本物の剣豪が出てきたらひとたまりもないのに、一人前の顔をしている青くさいやつという意味です。」
  この言葉は田丸が言ったのか、著者板倉久子の解説なのかよくわからないが、かつて交友があった男への言葉としてはきつい感じがする。確かに私も思った。週刊誌の写真から受ける感じでは、この男、田丸には弱すぎると感じた。優秀な女性は男を踏み台にして成長していくものなのか。彼女はこの男との触れ合いからジャーナリストとして男と対等に振舞えるスタートを切れたのではないか。
 「テレビの世界で女性キャスターとして多少名が売れたからといって、いい気になってはいけない。きみの本音インタビューやストレートすぎるレポートなど、本当のジャーナリズムから見れば茶番にすぎない」。「でもジャーナリストに必要な真面目さと度胸は抜群である。」
  当時、雑誌や週刊誌など活字の世界で活躍していたフリージャーナリストであった彼であったのだから、少年剣士とはちょっと酷な書き方のようだ。
  フジテレビ入局7年目、田丸は少年剣士を卒業した。
 報道という男社会で何とか男に追いつき追い越せと必死だった田丸にとって、主婦層は未知の視聴者であった。結婚して家庭を持って生活してみなければ、視聴者の目線にあった番組を作れないのではないかと思った。そのような時現れた男性のプロポーズに田丸の心は動き、結婚した。妻ある男であるが、ここでは詳細なことについて言及しない。
  主婦になった田丸は、初歩的な家事のことがわからない。しかし、
「仕事ができても家事が出来なければ一人前じゃない。よし、今は主婦業に専念しよう」と、仕事は週2回ほど気楽な番組に出演する程度におさえ、家庭第一の生活に切り替えた。
 その後、アメリカ留学を決断した。留学先は名門プリンストン大学の大学院で、行政学と国際問題専門を勉強した。この大学院のプログラムには、アメリカ政府関係者や大学教授、将来を嘱望されているビジネスマンなどの超エリートの人々が集まっていた。田丸は1年間の留学の間に、およそ250冊の英語の専門書を読んだというから、相当な猛勉強をしたことになる。
  今テレビで見る、彼女の落ち着きは、この1年間の勉学によって、ジャーナリストとしての基礎的な教養が身についたためであろう。
  田丸は帰国子女である。田丸の父親は田丸が生まれたとき、高校の英語の教師をしていた。ところが田丸が8ヶ月の時、突然、仕事をやめ、アメリカに渡ってしまった。田丸の父は元々アメリカ生まれで、祖父が病死し、父は4歳の時、日本に帰国している。父はサンノゼ州立大学での勉学のために一人でアメリカに旅立った。田丸5歳の時、ようやくサンフランシスコに母親と一緒に渡り、父親と暮らすことになった。田丸は小学4年生まで、アメリカ生活を送っている。田丸は根っからアメリカの雰囲気があっていると見えて、無邪気に楽しいアメリカ生活を送っている。ところが日本帰国後、帰国子女として同級生がらいじめられている。当時のことを振り返り田丸は次のように言っている。
  「アメリカの子どもたちにとけこむには、何の苦労もいやな思いもしなかったのに、同じ日本人の中に入ろうとしたとき、なぜか不当につらい思いをしなければならなかった。このときの経験が、子どもなりにも、私の中に日本人の排他性といういやな面があることを刻みつけたように思う。日本や日本人というものを、いつも一歩はなれて客観的に見ようとする私のクセは、このころの経験が素地になっているようです。」
 帰国子女後遺症のため、中学、高校時代は冬眠状態だったという。田丸が田丸らしさを出せるようになるのは、東京外国語大学英米語学科に入学してからといってよい。といっても、アメリカに行く前の幼児時代、広島の田舎でおてんばな子であったし、アメリカではローラースケートをするような活発な少女であったのだが。
  ひとめぼれした男子学生に、「だれか僕たちと一緒に芝居をやりませんか。ふたり芝居なんだけど、女役を捜しているんだ」という誘いで、相手役が彼だと思い込んで、劇団に入ってしまった。実は彼は演出の役であったのだ。
  大声を出したり逆立ちしたり、相手役の男と抱き合ったりしながら、いつのまにか、田丸は大胆になっていった。
  フジテレビの面接試験を冷やかし気分で受けたが、いつしか2千人中の3名に選ばれてしまった。光るものがあったのだろう。試験官は田丸の美しさに合格点を与えたのだろう。入局当初から報道をやりたいと思った田丸は、生意気な新人アナとして周囲から冷たく見られていた。同期の人間が、もう画面に出ているのに、彼女だけが取り残されていた。遂に彼女の出番が回ってきた。それはお天気予報を担当することだった。実質90秒が彼女に与えられた枠であった。
  田丸はただのお天気お姉さんで終わりたくなかった。当時の政治スキャンダル、ロッキード事件を種にした天気予報前のコメントを、上司の許可なく、本番で投げかけている。
 「皆さん木守りということばをごぞんじですか。ところでけさ私はぽつんと残った真っ赤な熟柿を見て、福田カラスや大平カラスにいじめられながら枝にしがみついている老練な三木熟柿と、それを必死でささえる三木守りの政治風景を連想してしまったのですが、テレビをごらんのみなさまはいかがお思いでしょう。えー。ではまず。お天気概況からお伝えしましょう」 
  スタッフの反応は賛否両論であった。田丸もしたたかである。
 「悪口は耳を傾けず、もっぱら応援の声だけを聞こう。批判や文句だって、考えてみれば反応じゃない。無視されるよりずっといい」
  この楽観主義が、今の田丸を作り上げたのであろう。

つづく