法華経徒然蔦#4

法華経徒然蔦#4
  ここからAの著作で興味のある記述について書く。
法華経』が示す、"しあわせ“の道と題して、Aは次のように述べている。
  
  「あなたは、今、話しあえる日常を通しておられますか。身近な人、たとえば夫婦、親子の間で、彼氏や彼女との間で、“思い切って話してみて良かった!”とか、“話してくれて、本当に良かった!”という会話がありますか?“話して良かった!”“聞いて良かった!"という間柄の人がいる。そんな毎日には安堵感と幸せ感があるものです。そんな思いは、お互いの日常を、ということは人生を、結果として安心なものとし、豊かにする原動力です。」

 上記の当たり前のようなコメントを法華経の一節を引用すると、説得力が出る。
  「“これからお釈迦さま(釈尊)は何を始められようとしとおられるのか?”という弥勒菩薩の質問に、瞑想に入っている釈尊に代わって文殊菩薩が、こう答えるのだ。『みなさん、如来・仏の考えは、この大いなる法を、聴き、話し合う場を作ることなのです。』」

  「私たちは、コミュニケーションということを考える時、すぐ、伝える中身、例えば相談ごととか、飛び切りの情報とかと言ったコミュニケーションを図る必要のある理由を頭に描く。しかし、その前に人は本来、他の人と触れ合いたいのではないだろうか。」
  「他人に自分の思いを語るという行為は、もともと人間性にそなわったものであるはずなのだが、その思いはあっても実行はまた別である。それを人々が実行することが『法華経』なのだ。」
 
  日本では寡黙であることが良い男の条件のように言われるが、法華経からするとそうでもなさそうである。男であろうと女であろうと、本来人間は多くを語りたい者のようである。幼児の些細なことでも両親に語りかけている姿は可愛いく、又人間の本質を発露している。今日見たもの経験したことを、一番信頼している人に話したい。それはごく普通の感情である。もし寡黙な人がいるとすれば、幼児期に親から自分の話をよく聞いてもらえなかった人である。いっぱい発信したいのに誰も聞いてくれない、そこでいつしか喋らなくなったのである。しかし、本当は話したくて仕方がないのである。学校生活に入ってからあまり喋らない子供は、折角話したのに、友達や教師に自分の発言を笑われたというような経験のある子である。そういう子どもが大人になって、内にこもって、ビビッているか、一寸頭の良い人間であればニヒルなポーズを示し、寡黙であるのを逆に売り物にしている。寡黙もニヒルもそんなもの人間の本質ではない。人間は、もし自分の言うことをしっかり聞いてくれる場があれば、話したい感情を抑えることが出来ず、喋りまくるのである。そういう話す場を作りなさいと、法華経は言っているのだろう。又さとった人間、気づいた人間が率先してそのような場を持つように努めなさいと説いているのだろう。しかし、人間社会では、人の顔を気にしたり、社会の悪しき掟により、自由に話せる、聞ける場が意外に少ない。ある場合は上司がいるために話せないとか、現中国のように言論統制があり自由なことが言えないとか、制約が多すぎる。ということは、法華経とは自由な発言が出来る政治運動も含めた、人間性の基本となる人間同士が尊敬しあい、忌憚のない意見を出しあえる家庭や社会を作ることが重要であることを説いているのであろうか。

 ロスの会合でAが言ったことと同じようなことが、本の中でも述べられている。
 
  「星を見入ったときは、遠い遠い彼方から届いているのであろう星の輝きに、吸い込まれるような思いの中で、宇宙を感じてきた。この宇宙の中で、地球で、日本で、東京で、今、この一瞬のような、宇宙の時間の中の一点に私は生きている。万物が縁起する、この一転に私は、今、こうして生きている。そう自分が'生きているということへの感慨が、どうしようもなく心を占める。・・・私たちは、現実の延長線上にある、たしかに現実である時空の、無限の、永遠の拡がりの中で、私たちに繋がる、今の私たちを生み出した縁によって、今、ここで、という一点おいて、永遠の中で生きている。『法華経』は、そのことの、"かけがえのなさ"を自覚させ、自分にとっての、この現実というものの価値と意義を読者の心に刻み込む。」
 
   哲学的な表現だ。今という一点で永遠と繋がるとは、妙なる世界と言うことが出来るのであろうか。私流に解釈すれば、連綿と続いた先祖の思いが、今という瞬時に私の思いとなって現れ、又縁で結ばれた他者との関係においても、その他者も先祖との絡みで私と関係してくる。このような世界を、妙もしくは摩訶不思議という表現しか浮かんでこない。この妙、摩訶不思議を人間が感じとったとき、何かが変わるように思う。またそう感じ取ること、気づくことが法華経での一番大事なことのように思う。自分が宇宙に抱かれ、父母の先祖の思いを意識することによって、限りある人生を最大限に生き抜こうというものが現れるのではないだろうか。
つづく