法華経徒然蔦#3

法華経徒然蔦#3
 <ここから敬称、尊敬語を省く>
 度々書くが、私にとって法華経は全くの門外漢である。しかし、仏教に関して、少々理解しているところがある。その私の理解からすると、Aは仏教の正しき伝道者である。一度面識があったが故のリップサービスではない。本そのものの中に、彼の思想と私の仏教理解と共通するものがある。また、法華経への私の無知を、関心、探求への方向性を与えてくれたのも事実である。聞くところによれば、AはFを通して彼の他の書物を送り届けてくれるとか。

 「『法華経』は救済の神を説かない。・・・救済の神を持たずに人間が救われるとはどういうことか。『法華経』は人間の救済をどう説くか。仏教は“さとり”を説く。仏教の常識ではさとりとは仏の境地とされるのだが、『法華経』によれば "さとり”は、人間みんなが具えている「気づける能力」である。」


 「仏ならざる者が、“さとり”を目指すのではなく、さとったから修行できるという発想には”さとり”とは仏の境地であるという今までの仏教の常識からすると、抵抗があるだろう」

 なるほど、道元法華経を勉強したというが、彼の悟りの考え方と通じる。悟りを目的とする待悟禅でなく、修行をしていることが悟りであると道元は解釈している。悟ったから修行をしているのである。我々はそう簡単に気づくことが出来ない。出来ないから修行しないのである。座禅をしている姿が仏の姿であり、掃除をしたり料理を作っている行為が仏なのである。

 「仏の世界には地獄もある。これが、『法華経』がまず示す仏の姿である。仏教の立場からすれば、われわれが生きているこの世は釈尊釈迦牟尼仏の仏の世界である。そのこの世のあり様の中には、地獄の生き様も入っている、これが、『法華経』の教えである。」

  これも納得。法華経は現実逃避の宗教ではない。現実の世界には争いあり、極楽どころか、地獄の世界である。その現実をみて、気づく人生を歩むということか。
 
 「『法華経』の現実的視点は、仏は五濁(ごしょく)の悪世に現れると断じている。仏の世界は楽園、パラダイスではないということである。古来『法華経』の教えは末法思想とむすびつけて受けとめられてきた。その結果、仏は世の中が、つまり人びとの状況が悪いから、世に出てすべき仕事があるのだという仏教の基本姿勢がかくれてしまったと、私は思う。・・・『法華経』によれば、もともと仏が世に出るときは"悪世”なのである。」

  
  我々が生きるということはパラダイスの世界に生きるにあらず。五濁(ごしょく)の悪世に生きるということか。だとすると、この世を恨んで自暴自棄になることも、この世が悪いからといって、隠遁生活を送るのも間違っていることになる。今生きている世界こそ、仏の世界であり、それを自分の力でもって、又他人との関係において改善していくことこそ、悟りの生き方であるということか。そうだとすると、『法華経』は私に新しい投げ掛けをしてくれることになる。

 「『法華経』で、釈尊は人間が『ひと』として生きる世界の実現を説く。『ひと』が他の『ひと』と正直に、誠実に関わっていく社会をつくってこそ、人間らしい世の中となる。それは、すべてにわたって人間が『ひと』として心から関わっていく社会でなくてはダメだと、人間自身が気づくことから始まる。救われる道を求めるのではなく、人間が目覚めることから始まる。」
  

  「気づく」ことと「さとり」を結びつけ、菩薩行という悟りの世界を、Aはより具体的に展開している。
 
  「“さとりとは仏の境地”という仏教の一般的常識と、『法華経』の教えは、明らかに違う。菩薩行という行動の中に、つまり人間の行動の中に”さとり“があるということである。人間は行いの中で、気づく。それはつまり、さとりを体感する。そのひとつひとつの覚醒がまた、ひとの行いの原動力となる。それは、よろこびであったり、達成感であったり、時として、気づけかなった誤ちに気づくことであったり、そのいずれであっても、『ひと』と共に生きていることの意義を目覚めさせるものであったりする。そして、それは私たちを次の行動のステージ、段階へとつき動かす。」
 

   私流に解釈すれば悟りを固定的に見ているのでなく、流動的、動きのあるもの、つまり働きのようなことを述べているのではないか。それも孤高の悟りの境地に達して自己満足しているものではなく、いつも人との関わりにおいて、自分も人も向上していくという、法華経流、菩薩行があるような気がする。
  これだと分かりやすい。私自身今直面しているある組織の発起への関わり、又その組織の発展のための関わりと、まさに「気づく」プロセスに直面している。ただ法華経的な気づきとなると、ただ自己顕示欲を満足させるための組織との関わりではいけない。組織の健全な進歩と共にその会員と私のよきステップ向上のための気づきでなければならない。このような我々凡夫でも気づけるというメッセージも残してくれているのがありがたい。

 「もとより具わる、あらゆることに気づけるさとり」とは、では、実際に何を指すといえるだろうか。改めて考えてみると、『さとり』すなわち、目覚める、気づくということは、誰にでもできることである。誰にでも具わっている能力と言ってもいいかも知れない。『もとより具わる、あらゆることに気づくさとり』もまた、人間みんなが等しく手に入れることのできるさとりである。人間みんなに本来具わっているさとりである。人間は気づけるはずのものであり、これは、みんなが等しく手に入れるべきさとりである。」
 
  凡夫どころか、餓鬼畜生までいずれかは気づける存在であると説いているのは、輪廻説と関係するのであろうか、これは仏教的といえるだろう。

  「蛆虫も、犬も狼も。百足や蛇、猛獣も夜叉も餓鬼も、すべてのものが、いずれは気づくべき、目覚めるべき“衆生”なのだ。そう『法華経』で釈尊は示唆されているとしか、私には思えない。・・・『法華経』より後に成立した『大乗涅槃経』に説かれる『一切衆生悉有仏性』という言葉の、思想の発端をここに見る。ただし、常識的に『仏性』を潜在性、仏になりうる可能性と平面的に理解してしまうと、『法華経』に説かれている趣旨と、少しく異なってくる。」

つづく