自らの身は顧みず 田母神俊雄論続編(特別編;皇室論#9)#11

自らの身は顧みず 田母神俊雄論続編(特別編;皇室論#9)#11
<koreyjp さんのコメントは、いつも心に沁みる、よい意味での衝撃的である。今回も考えさせられた。西尾氏の本「GHQ焚書図書開封」は名著であると思うし、西尾氏は保守として健全な思想家と思っていた。ところが、koreyjp さんは、西尾氏の事を、前回「戦後といふ『自由主義時代』が生んだ鬼子」、そして今回「敢てソッポを向くツッパリ少年」とバッサリと斬られた。木庵>
私の好きな現代の宗教家であり思想家である、NEALE DONALD WALSCHといふ米人は、”CONVERSATIONS WITH GOD"シリーズを書きました。或はご存知かもしれませんが。彼は貧困の苦境のどん底にゐたとき、自然と彼の手にしたペンが動き出して、神からのメッセージを表しだしました。その主旨は、「人間は存在することに意義がある。神は自らの偉大さの証明として、人間の存在を必要とするのだ。すべてはひとつなのだ。」といふことです。この考へは既存のキリスト教に比べて、合理的であり、説得力があります。最新刊は "HOME WITH GOD"だと思ひますが、もしご興味がおありでしたら、読んでみて下さい。さてこの神様の仰ることは、竹田氏の言はれる「天皇とは、そこに存在されるといふことが重要なのだ」といふ言葉と一脈相通ずるものがありますね。
私は、西尾氏が「天皇制度」について声高に云々するのを聞くたびに、不愉快になります。彼も一人の赤子ではないですか。日本国民は一種の家族としてのまとまりがあるのですが、彼などは敢てソッポを向くツッパリ少年みたいに私には見えます。
<、koreyjp氏は宗教的な人、それに対して西尾氏は政治的な人とみた。天皇信仰を日本の民間信仰を総括した宗教と考えれば、koreyjp氏の言うことに説得力がある。それに対して、天皇制を政治的な見地に立ってみると、西尾氏の言うことも理解できる。ただいえることは、天皇、皇室を西洋的合理主義(政治学も含めて)では見えてこない。「理性を通してはキリスト教は分からない。信仰を通してでしかイエスの愛がみえない」とクリスチャンの人はよく言う。そのようなことが天皇信仰にもあてはまるように思う。いみじくも、NEALE DONALD WALSCH氏(キリスト教)と竹田氏(日本教)の共通した言葉をkoreyjp氏は提示してくれた。天皇、皇室論はタブーであり、もし論じるなら、相当の覚悟、つまり、日本文化を徹底的に研究(それも心で)したあとでなければ、底の知れないタブー沼に足を取られてしまう。その意味でも、タブー沼に挑戦するには、西尾氏の素養では無理だったのかもしれない。皇室を論じ出すと、koreyjp氏や竹田氏のような皇室を守ろうとする北面の武士によって、打ち負かされてしまう。寺の玄関として山門がある。そこから自由に寺の中に入れる。ところが、山門の両脇には仁王が睨みをきかせている。「仏の前に、謙虚な心があれば、いくらでも自由にお入りなさい。しかし、奢れる心で入るなら、地獄に落としてやる」とでも、言っているようである。さて、西尾氏は奢れる心で皇室論に向かっているのであろうか。木庵>



産経紙「正論」に、藤原正彦氏の「皇室典範問題の本質―憲法と世論で伝統を論ずる無理」が掲載された。(注:OG氏から送られてきた記事)

有識者の恐るべき不見識
昨年、伊勢神宮を初めて参拝した。午後の外宮を歩いていたら、白装束に黒木靴の神官が三人、恭しく食膳を持って通りかかった。尋ねると、「神様の食事で、朝夕二回、千四百年余り続けてきました」と言った。六世紀に外宮ができて以来という。こんな国に生まれてよかったと久々に思った。
伝統を守ることの深い意義を信じる私にとって、「皇室典範を考える有識者会議」が女性女系天皇を容認、の報道は衝撃的であった。「世にも恐ろしいこと」と蒼ざめた。
政治や経済の改革が気に入らないことは始終ある。しかし、政治経済は成功しようと失敗しようと、所詮、政治経済である。腹を立てても蒼ざめることなどあり得ない。今次の答申はまったく質が異なる。伝統中の伝統、皇統に手を入れるものであり、その存続を危殆に瀕しかねないものであり、国体を揺るがすものだったからである。

気を鎮め、答申に目を通してみることにした。長たらしい答申を隅々まで熟読する、というのは初めてのことだった。そして、その空疎かつ凡庸な論理展開に愕然とした。
二千年の皇統を論ずる上での原点が、なんと日本国憲法と世論だったのである。実際、答申では要所要所でこれら原点に戻り、結論へと論を進めている。この二つを原点とするなら、実はその時点で結論は一義的に定まってしまう。男女平等により長子優先である。
議論は不要でさえある。
長い伝統を論ずる場合、それがどんなものであろうが、先人に対する畏敬と歴史に対する畏敬を胸に、虚心坦懐で臨む事が最低の要件である。この会議はその原点を逸脱し、移ろいやすい世論と、占領軍の作った憲法という、もっとも不適切な原点を採用したのである。
有識者」の恐るべき不見識であった。
そもそも皇族は憲法の外にいる人である。だからこそ皇族には憲法で保障された選挙権も、居住や移動の自由や職業選択の自由もなく、納税義務もないのである。男女同権だけを適用するのは無茶な話である。

・ 伝統は時代と理屈を超越
伝統を考える際に、憲法を原点とするなら、憲法改正のあるたびに考え直す必要が生ずる。
憲法などというものは、歴史を紐解くまでもなく、単なる時代の思潮に過ぎない。流行といってよい。世論などは一日で変わるものである。憲法や世論を持ち出したり、理屈を持ち出しては、ほとんどの伝統が存続できなくなる。伝統とは、定義からして、「時代や理屈を超越したもの」だからである。
これを肝に銘じない限り、人類の宝石とも言うべき伝統は守れない。
天皇家の根幹は万世一系である。万世一系とは、神武天皇以来、男系天皇のみを擁立してきたということである。男系とは、父親―父親―父親とたどると必ず神武天皇にたどり着くということである。これまで八人十代の女性天皇がいたが、すべて適任の男系が成長するまでの中継ぎであって、その男系でない配偶者の子供が天皇になったことは唯の一度もない。女系天皇になってしまうからである。
二十五代の武烈天皇は、適切な男系男子が周囲に見当らず、何代も前に分かれ傍系となった男系男子を次の天皇とした。十親等も離れた者を世継ぎとするなどという綱渡りをしながら、必死の思いで男系を守ってきたのである。涙ぐましい努力により万世一系が保たれたからこそ現在、天皇は世界唯一の皇帝として世界から一目置かれ、王様や大統領とは別格の存在となっているのである。

・ 「万世一系」は世界の奇跡
大正11年に日本を訪れたアインシュタイン博士はこう言った。「近代日本の発展ほど世界を驚かせたものはない。万世一系天皇を戴いていることが今日の日本をあらしめた。・・・
我々は神に感謝する。日本という尊い国を造っておいてくれたことを」。
世辞も含まれていようが万世一系とはかくの如き世界の奇跡なのである。
これを変える権利は、首相の私的諮問機関に過ぎぬ有識者会議には勿論、国会にも首相にもない。天皇ご自身にさえない。国民にもないことをここではっきりさせておく。
飛鳥奈良の時代から明治大正昭和に至る全国民の想いを、現在の国民が蹂躙することは許されないからである。
平成の世が、二千年続いた万世一系を断絶するとしたら、我々は傲岸不遜の汚名を永遠に留める事になろう。
以上
藤原正彦、産経紙「正論」、12月7日‘05)

藤原氏の記事に対する木庵の感想は#12で論じる。木庵>
つづく