新erasusさんへの反応#3

金持ちKさんの資産がどれぐらいだとか、その維持はどうしているとか、またどのようにしてその財を築いたか、少しは興味があるが、英語でSO What?(それがどうしたんだ)ということである。あの世に金を持っていけないし、いくら金があっても健康を買うわけにはいかない。せいぜい長生きしたとしてもて、110歳まで生きることなどできない。金なんで所詮紙くずである。そのことを一番知っているのはKさんである。彼は一度言っていた。「俺など地獄行きだ」って。しかし、この世ではこの金が大きな力になる、ある程度長生きできるのも、金による。つまり金はこの世界では重宝なものである。特に金がないのは惨めである。現世主義を貫くなら、金は神様というところだろう。この現世の刹那主義だけのことを考えれば、金は大きな力になる。
  erasusさんも病院などで、「金次第」を経験しただろう。Kさん、本当に「こいつは」という人間に、20万ドル、30万ドルやってしまうのである。しかし、今頃彼は言っている。「いくら金をやっても、金の使い方を知らずに、成功したヤツなどいないよ。みんな金をどぶに捨ててきたようなものさ」。でも、いつか大金をくれるのではないかと、Kさん詣する人間はいくらでもいる。子どもの時から金をもっていたから、友達は彼のかばんをいつも持ってくれていたという。学校の先生だって金を貸していたので、相当悪ガキだったのに、注意されなかったという。世の中を舐めきっている。アメリカは訴訟の国である。彼ほど財産を持っていると、裁判沙汰になることが多い。でも、一度も裁判で負けたこともないというから、これも金の力なのだろう。
  ところで、私が行くレストランは金儲けのためではない。彼の遊びの場所なのだ。人がやってきて、その接待にレストランは重宝であるというだけだ。それにオークションの話が出ていたが、骨董品もあるのだろうが、私が認識しているのは不動産のオークションである。日本とは事情がちがうようであるが、私はオークションの会場に行ったことがないが、専門のスタッフが4,5人いるようだ。ただ私が知る限りでは、一人の弁護士が書類を持ってkさんとよく何か話している。私は、人の財産を勘ぐる気持ちは少しあっても自分と関係ないことは、無理して知りたいとも思わない。Kが金持ちであるので余裕があり、法螺ばかりでどこに彼の本心があるのかわからなくても、人間的に面白いから付き合っているだけだ。金がどうのこうのは、So What?なのだ。

Erasusさんの事件帳、面白いとおもいますよ。以前どこかで書いたとおもうが、事件解決にはシャーロック・ホームズ型と刑事コロンボ型がある。前者は事件現場を細かく調査して、そこから犯人を割り出す。つまり観察型。それに対して後者は事件にかかわった人々の証言をもとに、その論理的矛盾を発見し、犯人を突き止めるという、論理型である。Erasusさんの事件簿は両者から犯人を捜すということをなされているのだろう。それに犯罪心理学、それに犯罪社会学も入っていると思う。これは、歴史の真実に迫るアプローチと共通すると思う。歴史的資料、それに対する論説などを総合して、過去の事件の真相はこうだったのだろうとか、OO戦争はどうしておきたのか、またどのような影響を与えかを推理する。Erasusさんの犯人探しと似ているとおもう。

ここまで書いていると、新しくerasusさんの
政権交代】正規化しよう日本の民主化〈二六〉−外交は原則第一だが融通無礙がいい−
が入ってきた。erasusさんの得意とする、日本会議批判論が展開してきた。それに対して反論というより、私の考えを述べる。福田が団塊の世代ではないということ、いつもの私の正確さのないところである。先日もある日系人(完全なるバイリンガル、精神は日本人)に、「貴方のような団塊世代は・・・」と言って、「私は団塊の世代から4,5年若いのですよ」と言われたばかりなのだ。福田が72歳であることすら知らない、日本政界音痴が、erasusさんがあげられたリストで誰が好きか嫌いかということなど分かるはずがない。ただ福田、河野、野中は今展開している著書、「チベット虐殺と朝日新聞」の記述から論を展開しているのと、ロスでは朝、フジサンケイのニュースが1時間流れ、日本の政治の流れについてのおおまかなことはわかっている。福田は確かに現実主義者であるとおもう。この現実主義者の捉え方がerasusさんと少しかな、大分違うようである。erasusさんの観点、「独立独歩、内政不干渉、民族自決権、このようなことは旧世紀の遺物ではないか」という指摘、その通りだと思う。現在世界が旧世紀の遺物から脱皮して新しい時代に対応した国際関係を構築しようとしているのに、「日本社会主義は、特に日本会議は国家はかくあらねばならぬ」という古い体質の上にのっかり、政治を展開しているのを、「社会主義、アカ」と糾弾なさる。政治哲学的に面白い展開であり、私は興味をもっている。このerasusさんの論理的展開に、「それはそうですが、現実的日本の風土に根ざした政治において、何を基準に置けばよいのですか」という見地にたつと、相対性理論ではないが、観点が色々と動き、本当のところ分からなくなる。そこで日本人という、基本的情(これも突き詰めると何がどうかよく分からなくなる)に根ざした、伝統観念というのが出てくる。神社に行くと心が和むとか、松尾芭蕉俳諧を読み、どこか分かるような気になるという感情である。この曖昧だけれど、どこか日本的だと思う感情は捨て切れない。例えばerasusさんと政治理念や現実政治のとらえ方は違っていても、お互い「日本人であるなあ」という共感とか共鳴のようなものがあるから、今までレスのやり取りが出来たのだと思う。私が少し冗談めいて「私を国粋主義者と思ってもらっても構わない」と書くと「国粋主義者の木庵先生は」とくる。勿論それは構わないが、政治論でも文化論でも、タブーを排し、どこまでも無から物事を見ていくアプローチはerasusさんと同じ(論理の追及に真実があると信じる考え)と、論理の底に流れるのは情であるという考えの両方を私は持っている。前者のところでは多いに議論をしていくが、後者のことはどうも平行線になるようにおもう。私が描く伝統とか国家観は私の情である。私の生まれ育った環境に根ざしたているようである。言葉ははっきり思い出せないが、確か吉田松陰が言ったとおもうが「霧島の???といえども、大和心」のようなものである。
  さて、「独立独歩、内政不干渉、民族自決権、このようなことは旧世紀の遺物ではないか」という指摘にもう一度戻るが、現実的世界の趨勢はまだこの旧世紀の遺物で動いていると見ている。中共覇権主義も、アメリカの覇権主義も、それこそが国家の基軸になっている。今回のアメリカの大統領選挙を観察していると、特にオバマが勝利を得た瞬間から、共和党オバマ民主党アメリカ国家(古い遺物そのもの)を表に出して、アメリカの国益のために統一していった。中国も、ロシアもイギリスもフランスも殆ど世界をリードする国々は同じ古い遺物観念で動いている。その中で、日本のみが現実的と称して、この古い政治的遺物の中をくぐり抜け、上手く泳いるかのように見える。果たして、上手く泳いでいるのであろうか。私にはそうはみえない。敗戦を経験した、去勢された民族の哀れな姿にしか私にはみえない。現実的対応とは、嘘でもまやかしでもよい、ある一つの国家観の上に立って、相手と対等にわたりあうということだ。わたりあった後、妥協点を見出すことである。はじめから「相手の嫌がることは言わない、しない」というのを、聖徳太子の和の心だと解釈できるのだろうか。またこれを新しい時代の知恵と解釈できるのであろうか。媚び諂っても実質的な益を得るという巧妙な政治学なのだろうか。平和主義、喧嘩せず主義、誰とも仲良くする主義でもって、世界の弱肉強食的現実世界を乗りきることが出来るのだろうか。まあ、乗り越えられるだろう。それには、たくさんの金を搾りとられる政治力学にはまることになるだろう。それでも、「それでよい」というのなら、「そうして下さい」。それは自由だ。「自己主張も出来ない、哀れな日本の将来」が待っているようである。(2008年、11月9日記)
木庵