ビルマ(ミャンマー)#29  

ビルマミャンマー)#29
麻薬王クンサーの記事もあったので紹介する。>

                      麻薬王クン・サー死去
 2007年10月26日、麻薬王クン・サーが73歳で死去しました。遺体は同月30日の朝にヤンゴン市北オカラッパ地区の「イェーウェー斎場」で火葬されました。

 クン・サーは、ビルマラオス・タイの3国が国境を接する「黄金の三角地帯」でのアヘン密造で巨万の富を築いた人物でありますが、ここ10年くらいは糖尿病と高血圧に悩まされ、今年8月末にはヤンゴン市ミンガラードン地区の陸軍病院に約1週間入院して治療を受けていました。

 クン・サーは、1934年2月17日、シャン州タンヤン郡パーピン村で、父クン・アイッと母ナン・サイ・ズムの間に生まれました。彼は1960年1月6日に武装組織「ロェモー防衛軍」を創設して、1967年7月6日から9日にかけて「黄金の三角地帯」で中国国民党軍の残存勢力と交戦し、後に同地域でラオス軍とも交戦するなど戦闘を重ねながら勢力を伸張し、やがて「シャン連合軍(SUA)」と改称しました。さらに1986年にはシャン州南部のホモンに本拠地を置いて「モン・タイ軍(MTA)」と名称を変え、シャン族居住地の独立を標榜するようになりました。 

 1995年11月、クン・サーはモン・タイ軍の最高司令官を引退しました。2か月後の1996年1月にモン・タイ軍ビルマ国軍と停戦協定を結ぶと、軍政はもはやクン・サーの敵ではなくなり、むしろ、クン・サーの麻薬犯罪を裁くために「クン・サーの身柄を引き渡した者には200万ドルの褒賞金を出す」と公言していたアメリカ政府などから守ってくれる盾のような存在になりました。そのため、クン・サーは、余生をビルマ国内で平和に暮らすことができたのです。ミャンマー軍事政権とクン・サーは元々仲間としてアヘンをたくさん密造・密輸して、ビルマはアヘン製造が世界第1位(現在は2位)となりました。クン・サーにはたくさんの奥さんと子供たちを残して亡くなりました。
<私はビルマミャンマー)の事を今も継続して調べている。ところが、近頃のビルマの動向がはっきりしない。プリズムによって屈折された報道では、ビルマの実体がつかみにくい。本当ならビルマに行って現地の事情を知るのが正しいのだろうが、長井さんではないが、そのようなことをすれば殺害されるかもしれない。真実とは死を賭けてもなかなか見えてこないものである。前記したように、近頃ビルマの女性のブログを発見した。そして、彼女のブログに私のコメントを書いたところ次のような返事が返ってきた。>
「初めまして、訪問とコメントありがとうございます。私は無料雑誌である平和の翼というジャーナルで編集長として活動をしています。平和の翼にはいろいろな方たちが記事を書いてくれています。その中には共産主義的な考えを持つ人たち、社会主義や民主主義や資本主義的な考え方を持つ人たちがいます。皆それぞれの意見を出してくれています。平和の翼ジャーナルと私のことを10月3日発売の週刊金曜日の22ページに田中記者が詳しく書いてくれています。ぜひ読んでみて下さい。
あなたの考えを記事として使わせていただきたいのでぜひビルマ民主化についての記事を送っていただければ、と思っています。」

<そこで、次の記事を送ることにした。>
 私は在米30年になる日本人です。1年半ほど前からビルマミャンマー)について調べ、今ブログで書いております。元々アウンサン将軍の暗殺あたりまでの歴史を書くつもりでしたが、いつしか現在のミャンマーの事情にまで首をつっこんできました。ビルマというと「ビルマの竪琴」を子供の時に見て以来、パゴダを代表とする善良なるビルマ人仏教国というイメージがあるだけで、多民族入り乱れての歴史の展開については殆ど知りませんでした。ところがビルマのことを知っていくうちに、イギリス統治下、日本統治下、それに独立後の事情が実に複雑で、そう簡単に現在のビルマ民主化問題を論じられないような気がしております。ただ今の段階で私の頭の中で整理したポイントを箇条書きにしてみます。
1) ビルマは東南アジアの中でも歴史的に物質、精神ともに豊かで、識字率が高く、特に女性の地位が高い豊饒な文化を構築してきた。
2) ビルマと言っても、多くの民族の勢力拡大闘争の歴史展開で、現在のミャンマーの国境を画するようになったのはイギリス統治以後と考えてよい。
3) ビルマだけでなく、アフリカ、アジアが不幸の時代に入るのは西洋諸国の植民地統治以来である。強力な物質文明、軍事力を誇る西洋列強の餌食になったのがアフリカ、アジア諸国であった。ビルマの不幸は王様がいなくなったことから始まった。多民族国家を何とかまとめていたのが、王族であった。ところが最後の王となったティーボー国王 をインドのラトナギリに配流されたことが、ビルマを不幸にしていく最大の原因であったと私は見ている。
4) イギリス統治下での民族分裂統治は成功した。特にカレン族キリスト教に改宗させ、高い教育を与えてマジョリティービルマ族(仏教信仰者が多い)の上に格付けされたことによって、ビルマに根本的な混乱が生じた。今でも恐らくビルマ民主化の先頭に立っている人の中にカレン族出身の人が多くいると推測する。それにインド人の移住政策もビルマの民族問題をより深刻化したようである。
5) 悪玉イギリスを追い出してくれる救世主としてビルマの多くの人は日本軍に期待した。ところが日本が敗戦への道を歩み出したとき、アウンサンは日本から背を向け連合国側に寝返った。この選択はビルマ独立という大義名分のためには一応評価できる。ところが、ビルマ独自で独立を勝ち取るという根本的哲学性の欠如と見られても仕方がない。国家とは他国の援助ではなく、己の力で独立を戦いとる気迫と知恵が必要である。その点、隣のタイは国王を中心にその知恵があった。
6) アウンサンは王様がいなくなったあとビルマを一つにまとめ、実に巧みにイギリスと交渉し、ビルマの独立を得るための最高の功労者であった。
つづく