ビルマ(ミャンマー)#27

ビルマミャンマー)#27

その証拠に、96年、ヤンゴン市内でスー・チー女史の乗った自動車が、暴徒に囲まれ、立ち往生する事件がありました。彼女の身に危害が及ぶ寸前、警官が暴徒を排除し、守ったのです。

これは、1996年8月にヤンゴンのダラー地区で起きた車内ろう城事件のことだと思われる。この時期、スーチーは自宅軟禁から解放されていた時期で、政治活動を行おうとヤンゴンから地方へ車で出発したがダラー地区で軍政当局に制止された。そこで、スーチーは軍政に抗議するため、車内に数日間ろう城した。ろう城した理由については、軍政の横暴を海外にアピールする意味があったためだともいう。

88年当時、国内では18の少数民族が、反政府の武力闘争を繰り広げていました。首都に住む市民でさえ、日常的に銃声を耳にしていたほどの激しい内戦だったのです。

私は87年に初めてミャンマーを訪れたが、その当時ヤンゴン市内は平穏であった。80年代JICAの仕事で数年間ヤンゴンや地方住んでいた方と親しくしているが、ヤンゴンで日常的に銃声という話は聞いたことがない。この当時、ヤンゴンを含むビルマ族が多く住む地域は平穏で、シャン、カチン、カレンなどの少数民族の地域では戦闘が続いていたというのが事実だ。ヤンゴンで銃声というのは、50〜60年代のことである。

他にも事実誤認があるが、これくらいにする。山口氏の手記が全て誤りとは言わない。スーチー善、軍政悪という視点でしかミャンマーを語らないマスメディアに問題があるという、山口氏が指摘する点については、私も賛同するところがある。しかし、事実誤認を前提としたこの手記では逆効果になると思う。それに、ミャンマー問題に詳しくない一般の人がこの記事を鵜呑みにする危険性がある。週刊新潮も影響力のある週刊誌だから、もう少し注意して記事を載せるべきではないか。

実は、山口氏とは以前日本で一度お目にかかったことがある。ミャンマーから伝統舞踊のグループが来日したときに、山口氏が個人的に鎌倉へ招待したということがあり、そこに私も同行したのだ。そのときの山口氏は全然官僚らしくなく、誰にでも気さくに接する方で好印象であった。その方がこのような手記を書くのは、氏の周りの人たちが偏った人たちばかりのせいだろうか。残念である。
<birumasamuraiさんは何と言ってもビルマの方であるので、彼女のブログは真実を伝えているのであろう。ただ、この女性がどういう思想的背景にあるかはよく分からないので、ある間隔を持ちながら彼女の記述を参考にすることにする。>
憲法制定は軍政の「合法」化を目指したもの  
 
憲法が内包する深刻な問題点を箇条書きで示すと次のようになる。
?全般的に軍がビルマにおいて超越的存在であることを憲法によって認めさせようとしている
?2院制を採用、両院とも25%の議席は国防大臣が指名する仕組みになっている(軍人議員が4分の1を占める偏った議会となる)
?憲法改正には両院の75%以上の賛成が必要である(軍人議員の同意がないと改正は実質不可能)
?大統領と副大統領2人(計3人)は議員から互選、1名は軍関係者でないといけない。また、国防大臣、内務大臣、国境担当大臣は大統領ではなく国軍最高司令官が任命する規定がある(これにより、軍が行政の中枢をコントロールする体制となる)
?大統領には高度な軍事知識や軍の経験が求められている(この規定により、現軍政の議長タンシュエ上級大将が大統領に横滑りする可能性がある)
?外国と特別の関係にある者、特に配偶者が外国人である場合、議員にはなれない(アウンサンスーチー氏を議会から締め出すことになる。すでに軍政高官はそのことを示唆している)
?犯罪歴のある者は議員になれない(ビルマでは「政治犯」も「犯罪者」なので、彼らを排除することになる。NLD関係者や学生運動出身者の少なくない数は議員立候補資格が得られない)
?国内治安が乱れたとき、また国家の主権が崩壊の危機に直面したとき、軍司令官が全権を握ることができる(軍による「合法的クーデター」を認めているようなものである)
?国民投票に際し国際監視団の受け入れは認めなかった(よって公平な国民投票にはならず、投票率98%、賛成率92%という茶番の投票となった)
?憲法草案反対・ボイコット運動を禁止した(国民投票を前にした国民の自由な議論を封殺した)

<タンシュエ軍事独裁体制が完成しつつあることがよく分かる。>
軍事政権は新憲法の賛否を問う国民投票を強行した。軍の政権維持をねらった「新憲法」である。アウンサンスーチーが大統領はおろか、国会議員になる資格まで奪う新憲法は、軍事政権の発表によれば国民90%以上の賛成で成立した。その直後、「国家に危害を加える人物はこれを拘束できる」とする国家防御法による彼女の軟禁期間はさらに1年延長された。span>

2回目の自宅軟禁(2000年9月〜2002年5月)、
2003年5月30日、アウンサンスーチーは殺されそうになった。NLDのメンバーとともにキャラバンを組み、ビルマ北部ザガイン管区ディベイン地区を移動していたときに、USDA(連邦団結発展協会)とその配下のならず者たちに襲われた。彼女が地方遊説中にUSDAについて「この組織は法とは関係ない組織なのではないですか? そのような組織が我が国に存在していいのでしょうか?」と批判した直後の襲撃だった。USDAは軍事政権の肝いりで結成された「大衆組織」とされる。軍事政権の命によって動く。「ビルマの内政に干渉する外国勢力は国民の敵だ!」、「新憲法を断固支持するぞ!」などと叫びながらデモをする。それを国営メディアが取り上げ、これこのとおり、一般の国民は軍事政権を支持していると報道するのである。
のちに民主化勢力側から「ディベイン殺人事件」と名づけられたこの事件では60人を越えるNLD党員、支持者が殺された。アウンサンスーチーを含め負傷者も多い。被害者であるはずのアウンサンスーチーはこの事件以後3回目の自宅軟禁が科された。
ビルマミャンマーも両方間違えた呼び方だ
日本政府はタイとビルマの国境にいるビルマ人難民の中から30名を日本に招き入れる予定と発表した。
日本には難民調査官が少ないため、難民申請をしてもなお、難民審査の順番を数年間も待たされている申請者たちがいる。他にも日本の難民制度には多くの問題点がある。日本国内で難
民として認定された認定者たちにどんな支援・保障があるのだろうか?
つづく