ビルマ(ミャンマー)#25

ビルマミャンマー)#25
1) シャン州の北に岐阜県ほどの広さのワ州(ワ軍支配区)、その北にワ州の4分の1ほどのコーカン州(コーカン軍支配区)が隣接している。二つの州は中国と国境を接している。また、ワ州のほぼ南端から狐の尻尾のように中国国境線に沿うように、またラオスの北西とも国境を接するリン・ミン・シャン軍支配区(ワ州の半分ほどの広さ)がある。この3つの支配区は、旧ビルマ共産党支配区である。それに加えシャン州の南部、タイと国境沿いにクンサー軍支配区(ワ州の半分)、とワ軍支配区(コーカン州の半分ほど)が少し間隔をあけて存在する。ワ軍支配区は飛び石状態に二つに分かれている。これらの支配区は一応ビルマ政府軍と交戦中か停戦状態にある地域ということになる。実はシャン州は33の州内州(サブ・ステート)からなり、ワ州の場合、シャン州のワ州ということになる(ビルマ政府はサブ・ステートを行政区分としておらず、慣習的にそう呼ばれている)。ゴールデン・トライアングルとは、タイ、ラオスビルマの国境地帯に広がる、いわゆる麻薬地帯のことであるが、ラオス、タイは元々生産量が少なかったうえに、政府の規制でアヘンは1980年代に入ってから激減している。結局両国とも「負のイメージを」払拭しようとした結果である。ところがビルマはアヘンの生産量は落ちるどころか90年代になってから増加する一方である。1997年現在ではゴールデン・トライアングルの全生産高の9割以上であると言える。しかもその60〜70%をワ州から生産されている。つまり、全世界の4割前後のアヘンを岐阜県ぐらいの広さの所で栽培されているのである。この地を管理しているのが、ワ州連合軍(ワ軍)という反政府ゲリラ組織である。ワ軍はアヘンに税をかけたり、ヘロインから生じる利益によって強大な武力を維持しているといわれている。
2) 中国がビルマ政府と敵対しているはずのワ州に国境を開いているのは。ワ軍とビルマ政府が今のところ停戦しており、その条件の一つとして中国が国境を開放するというワ側の要望があったからだ。
3) 高野は4年もかけて、「麻薬王」の異名をとる、反政府ゲリラの頭目、クンサー(中国名、張(チャン)奇夫(チーフー)、シャン州出身。中国人の父とシャン人のあいだに生まれる)のグループにコンタクトをとった。前述したように、シャンはシャムと同起源の言葉で、歴史的にビルマより北部タイとの関係が強かった。ビルマ連邦に組み込まれたのは、イギリスら列強による植民地化と国境線引きの結果である。
4) クンサーは口では「シャンの独立」を謳いながら、実際にはビルマの軍事政権と地下で通じ、支配区では独裁君主のような圧制を強いているという噂があった。
5) ワ軍の強さは定評がある。ワ人はかつて宗教上の理由から、あるいは復讐の目的から、近隣の村や他民族の土地を襲い、殺した相手の首を狩る、いわゆる「首狩り族」の末裔である。
6) ワ州は、シャン州の中でも例外的に政府軍が入り込めない土地である。支配区の拡張やアヘン=ヘロインの利益、さらにはシャン州とタイを結ぶルートをめぐって、ワ軍がクンサー軍と衝突を繰り返している。
7) ワ州は、今はワ軍、その前は20年間にわたってビルマ共産党(BCP)に支配され、さらにその前は中国の内戦に敗れた国民党軍の残党が徘徊していたところである。道らしき道もない秘境で、人々は首狩りにいそしみ、とてもビルマ政府やそれ以前のイギリス植民地の統治の及ぶところではなかった。つまり、有史以来、いかなる国家の管轄下にもなったことがないのである。
8) 高野はサイ・バオと言う人間に接しているが、サイ・バオは1970年ごろ、「ゴールデン・トライアングルの首都」と呼ばれたチェントゥインで生まれ育ち、ラオスでCIAの仕事をしていた。ラオスは1954年に旧宗主国フランスが撤退してから1975年に共産化するまで、ラオス国軍はアメリカの軍隊であると揶揄されるほどのアメリカと結びついていた。当時は、そのラオス国軍の総司令官自身がヘロインの精製所や密輸ルートをコントロールしていたといわれ、そのお先棒を担いでいたのがCIAだといわれている。CIAは当時、タイ・ビルマ国境付近の少数民族にケシ栽培を奨励し、彼らから安価で買い入れてヘロインに変え、それを軍資金にして同じ少数民族の反共ゲリラ兵士と戦わせていたという。
9) ワ軍は設立以来、一度も政府軍と戦ったことがない。だから反政府ゲリラという呼称は矛盾している。おまけに、政府軍と一緒に戦ったことがあるというからややこしい。
10) ワ州とそれに隣接する一帯は、1968年から89年まで、中国が全面的にバックアップするビルマ共産党支配下になった。今でも行政区分や官僚組織の面でワ州が中国の統治方式を踏襲しているのはそのためである。
11) 1989年、共産党内で軍内クーデターが勃発した。ソ連崩壊と直接関係はないにせよ。社会主義というシステムそのものの制度疲労や世界的な民族主義の台頭と無縁ではなかろう。又この頃民主化問題で国際社会からバッシングを食らっていた中国とビルマ政府が「同病相憐れむ」格好で急接近し、中国側も時代遅れのビルマ共産党を早いところ厄介払いしたかったという地域的な事情もあったと思われる。結果として、ビルマ人指導者たちは中国に追放され、ビルマ共産党の支配区は、以前に述べた3つに割かれた。北からコーカン州、ワ州、ムンヤン地区だ。共産党崩壊と同時に各地域は連携をとりながら、自前の軍隊を旗揚げした。このとき、ビルマ政府の事実上のナンバーワンであるキン・ニュン第一書記が自ら乗り込んで旧共産党三派とまたたくまに停戦条約を結んでしまった。つまり、政府軍と戦う前に停戦をしたのである。<このあたり、1988年9月、タン・シュエ議長らが率いる軍部が独裁体制を敷いたネ・ウィン(Ne Win)将軍へのクーデターを決行、それに現在のタン・シュエ軍事政権と中国との接近と関連して考えると、筋が読めてくるはずである> 
12) コーカン人は実は中国人(漢族)のことで、中国語では(果敢)と書く。世界でたった一ヶ所、中国人が華僑としてではなく、他国の少数民族として存在しているところである。国境の線引きでそうなったのではなく、隣の雲南人とは一線を画する。コーカンは明朝の一族及びその近衛兵の末裔である。17世紀、清が攻め込んで明を征服したとき、南へ南へと逃げ、ついにビルマに逃げた。清朝の要請で当時のビルマ王朝は、諸王の一人、永暦帝(1625−62)の身柄を引き渡したが、随行していた人々には辺境の山岳地帯に住むことを許した。したがって、コーカン人は由緒正しい明王朝の末裔である。少なくとも彼らはそう信じている。
13) コーカンといえども、中国人は中国人である。イデオロギーのたががはずれるや、利を求めて驀進するのは昨今の中国大陸と同じである。新軍隊をミャンマー全国民主同盟軍と命名し、ビルマ政府と癒着しだした。実際、1990年の総選挙には、ビルマ国軍の内部でもアウン・サン・スー・チー国民民主連盟(NLD)が圧倒的支持を得たにもかかわらず、コーカン州ではビルマで唯一、ビルマ国軍の党が第一位を占めた。これはどう見ても反政府ゲリラではなく、「親政府武装勢力」と呼んだ方が良い。コーカン州はワ州の4分の1にも満たない広さであるが、ワ州に次ぐ第二のアヘン生産地である。
14) ムンヤン地区では、東シャン州軍と名乗り、首領は紅衛兵上がりの中国系シャン人、リン・ミン・シャンである。これは民族ゲリラですらなく、いわゆる軍閥である。

  つづく